短歌に映される深層意識 選んだ歌を通して自分自身が見えてくる時 - 短歌のこと

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短歌に映される深層意識 選んだ歌を通して自分自身が見えてくる時

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新聞の歌壇欄はコラム以外はざっと見るだけなのだが、今回はなぜか目に留まったものがある。

何か自作の参考にと思って読んではいるものの、書き写したくなる歌というのは不思議に自分を反映するものが多い。

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児がくれし暑中見舞ひにわがほめしくはがたの絵が描き添へてあり 鈴木昌宏
ほら此処の十一人が身内です平和の礎(いしじ)の死者を撫でる手 伊藤紀美子
長身の吾子は改札抜けてより帽子を廻し振り向かず去る 坂本二男

そうして見えてくるものは自作の歌を見て自覚する以上に、顕著で動かしがたいものがあるような気がする。

今から10年以上前に読売新聞を取っていた時、その頃はまだ歌を始めたばかりの時だったのだが、毎週スクラップ帳に綴じて好きな歌に印をつけていた。

スクラップは二冊になっていて、それぞれある程度厚みがあった。

 その中に今も忘れられない歌がある。作者名はもちろん今はわからない。

この街のいづくに吾子は住まうらん高田馬場の駅に降り立つ
風に揺るるコスモスの花に頬を寄すこの道を行けば子の墓がある

私はそもそも歌を始めたのが遅いこともあって、記憶して朗詠できる歌などはほとんどない。

語彙を増やしたいともいつも思っているが年齢のためもあるだろう、憶えたくても憶えられず、自分の歌でも空で朗詠できないのが大半なのだが、なぜかこの二首だけは思い出せる。

そしてまた、このような文章を書こうと思うまで、自分の選択を客観的に考えるということがなかったため選択をいぶかしく思うこともなかったのだが、よくよく見ればこの二首はどちらも親が子供を思う歌なのである。

そして私には子供はいない。欲していたという意識もない。子どもを詠む歌に共感を覚えるような実生活の経験は全くないにもかかわらず、私がもっとも心が揺さぶられるものとして、多数の歌の中から自然に十年以上に渡って私が記憶したものがそれなのである。

と言えば、その選択が恣意的なものでも、単なる良し悪しでもなく、何らかの志向によるものだということは明らかであろう。

その頃に比べると作歌を続けた今は短歌というものに近くなりすぎてしまい、意識をしてしまってからでは、上記のような自己分析はもはや無用。

冒頭の朝日歌壇からの抽出の冒頭の「児」、これはお孫さんなのだろうが、その歌に丸を付けたのは、私自身が実生活で子どもから五月に同様にイラスト入りの手紙をもらったためである。

不思議なことだが、私には今や便宜上ではあれ「子」と呼べる間柄の家族が居て、自分の経験の反映する歌を拾っていることになる。

数十年の時を隔てて、各時点で私が共鳴する歌は同一のテーマであるということが、記憶する歌によって偶発的に自分の意識するところとなったという例である。

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