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島木赤彦の写生論「アララギの背梁」大辻隆弘

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「島木赤彦の写生論」より。


やや暫し御嶽山(やま)の雪照りて谿の曇りは移ろひにけり

岩あひにたたへ静もる青淀のおもむろにして瀬に移るなり

石楠の花にしまらく照れる日は向うの谷に入りにけるかな

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大辻は「これらの歌の背後に息づいているのは、継時的な主体の感覚」であるという。それを生むものに「やや暫し」「おもむろに」「しまらく」といった副詞のはたらきをあげている。

そればかりでなく「雪照りて」の「て」、「にけり」「なり」三首目「る」「ける」「かな」の、時間認識や詠嘆の心情を表す助詞や助動詞の「辞」の働きによって、対象に添う作者の心の動きもまた浮かび上がる。

「赤彦自身が「写生」の歌の理想像とした「感動」の表現は、これらの晩年の歌の細やかな「辞」のなかで達成されている。あからさまな感情語による声高な自己主張ではなく、それ自体は指示性を持たない「辞」によって、細やかな主観の働きを表現してゆく。自体明晰な指示性を持つ「言」(自立語)ではなく、副詞・助詞・助動詞といった付属語によって、一首の叙景の背後にある主体をあぶりだしてゆく。(中略)「辞」の働きをこまやかに測定し、それを駆使することによって、一首の意味内容の背後に、あたかも影絵のように継時的に存在する主体を立ちあがらせる。赤彦が「写生」によって支えようとしたのは、このように、実に遠回りで精緻な自己表現の回路だった、といえる。

十分な読みと説明だと思う。語法に基づいた実証的な分析と解釈は素晴らしい。

赤彦の見ているものは静止、固定した対象物ではなく、その動きと移ろいそのものが主題だと言っていいだろう。なのでおのずから時間の要素がそこに加わっていったのだろう。それを行う作者に「写生」という観念があればこその作品であり、偶発的にも意図的にもそれらを包含するのもまた一個の主体の為すことなのだった。

写生と叙景とは違うものだ。そして一つの技法を選ぶということは、一つの思想に近づくものといってもいいかもしれないと改めて思わされる。



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