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ダアリヤは黒し笑ひて去りゆける狂人は終にかへり見ずけり 斎藤茂吉『赤光』

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ダアリヤは黒し笑ひて去りゆける狂人は終にかへり見ずけり

斎藤茂吉『赤光』から主要な代表歌の解説と観賞です。このページは現代語訳付きの方です。

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『赤光』一覧は >斎藤茂吉『赤光』短歌一覧 現代語訳付き解説と鑑賞 にあります。

「死にたまふ母」の全部の短歌は別ページ「死にたまふ母」全59首の方にあります。

斎藤茂吉の生涯については、以下をご覧ください。
斎藤茂吉の作品と斎藤茂吉の作品と生涯 特徴や作風「写生と実相観入」

 

ダアリヤは黒し笑ひて去りゆける狂人は終にかへり見ずけり

現代語訳

ダリヤの花は黒い。笑って去って行く狂人はとうとう(私の居る)後ろを振り返ることはなかった

出典

『赤光』大正2年 8 みなづき嵐

歌の語句

かへり見る・・・振り返る 振り返って見る
ダアリヤ・・・花の名は本来は「ダリア」であるが、原語dahliaに近い「ダアリヤ」

表現技法

「黒し」で切れ。2句の句割り。

万葉語と非万葉語とを一首に両方を取り入れることで、万葉語を際立たせる作用がある。

 

 鑑賞と解釈

2句目の茂吉の歌には珍しい句割れは「ダアリヤは黒し笑ひて去りゆける」と読み下すとき、<黒い>ことと<笑う>こととが一連の事象であるような印象を受ける。

すなわち「ダリヤが笑っている」という擬人的な効果が生じる。

読み進めると、4句で「笑ひて」は狂人の動作とは把握し直されるものの、今度は、<狂人が笑う>イメージ全体が<ダリヤが黒い>ことと重なってくると品田は言う。

なお「ダアリヤ」と「狂人」は、前者は外来語、後者は漢語として、共に非万葉語であり、一首から浮き出ているということがこの関係の成立を助けていると品田は言う。

そして極めつけは、この説明を読むとこれらの効果が「定型の縛りがあってはじめて可能な手法」だということである。

句またがりや句割れといった配分は、五七五七七のあらかじめの字数の決まりと型がないところには成り立たない。

以上の説明で、作者斎藤茂吉が語の種別の選択や音韻だけでなく、語の配置とその効果にも気を配っていたことがわかる。

 

 

めん鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり

 

現代語訳

めん鶏は砂を浴びていた。その庭をひっそりと剃刀研ぎ師が通り過ぎて行ったのだ

出典

『赤光』大正2年 10 七月二十三日

歌の語句

居たれ・・・已然形
剃刀研人・・・各家庭を訪ねて刃物を研いでは料金をもらっていく職の人

表現技法

2句切れ 已然形止め
已然形止めは茂吉独特の用法

「めんどり」「ひっそり」「かみそり」「にけり」のラ行の音を含む類似の音型の連続に注意。

3句の「ひつそりと」の促音は一首全体のアクセントをなす。

■茂吉の已然形止めについての解説
「斎藤茂吉―あかあかと一本の道とほりたり」

解釈と鑑賞

真夏の日中に家にいる時の出来事を、沈黙のうちに、その気配だけで詠んだものだということが、自解でわかる。

めん鶏どもが砂を浴びて居る炎天の日中に、剃刀研ぎがながく声をひいて振れて来た。その声に心を留めていると、私のいるところの部屋の前はもう黙って通り過ぎてしまった。それが足駄の音でわかる。炎天の日盛りはそういう沈黙の領するというようなところもあった。(斎藤茂吉著『作歌四十年』より)

 

砂を浴びる鶏と剃刀研ぎの気配のなかに白昼の領する沈黙の意味を感じ取って、その不気味なような瞬間を永遠のものとしている。深い生の倦怠をのぞき見ているような歌である。
「めん鶏」でも「ひっそりと」でも、かけがえのない一つの感情を託した語であり、「ひっそりと」など今日から見ればやや平俗であるが、平俗なものを苦心して発掘した功績は今日でも光っている。(「茂吉秀歌」佐藤佐太郎)




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