佐太郎の茂吉解説 茂吉秀歌

斎藤茂吉の短歌の鑑賞と解説「茂吉秀歌」4暁紅・白き山・つきかげ

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岩波新書版「茂吉秀歌」からの抜粋です。斎藤茂吉の短歌に一首ずつ、佐藤佐太郎が表現技法を解説、鑑賞のポイントを書き加えたものをまとめたものです。
鑑賞の際に参考になさってください。

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145「暁紅」ゆふ闇の

ゆふ闇の空をとほりていづべなる水にかもゆく一つ螢は

内容が単純だから言葉の響きが美しく沁み徹ってくる。言葉のひびきに感情の揺らぎのあるのはこの作者の特徴だが、こういう歌になるとそれがよくわかる。「ゆふ闇の空をとほりて」など、確かでもあり、清くもあり、さらに「いづべなるみずにかもゆく」と言葉に細かい振動をともないながら息ながくつづく声調はまったく見事である。一語一語が収まるように収まって、結句に来て全体が再び共鳴するような、言葉のひびきというものはたいしたものである。

かも( 連語 )
〔係助詞「か」に係助詞「も」が付いたもの。上代語〕 種々の語に付き,係助詞的にはたらく。係り結びを起こし,結びを連体形で止める。詠嘆の気持ちを込めた疑問の意を表す。…かなあ。 「置目もや淡海の置目明日よりはみ山隠りて見えず-あらむ/古事記 下」 「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとり-寝む/万葉集 2802」

146「暁紅」日蝕の

日蝕の日は午後となり額より汗いでながら歩みをとどむ

日蝕の時刻をあからさまに言わない上句につづいて、「額より汗いでながら」といって、異常な空気を暗示している。また街上にたちどまった「歩みをとどむ」も、その空気の中に身を置いたことを言って、現象との距離を置かない表現をしている。

147「暁紅」風やみし

風やみし山のはざまは大き石むらがりあひて水を行かしむ

石は川の流れをはばむように群れているが、水は水でおのずからの方向があって石のあいだをながれている、それを、石の側から言うように「水を行かしむ」といった。そして人のはからいのない自然の姿がここにもあると言って、石の偉容とその安定した平和を表現し得ている。

148「暁紅」夜空にし

夜空にし低き雷(いかづち)のとどろきの終らむとして山は震えり

「し」は強めるための助辞、夜空句の雷鳴は低くなったが、低くなって終わろうとする時に、そのとどろきに山が共鳴する。一つの機微を捉えた「山は震へり」は、誰にでもいえるというわけでもない。

参考:
石のべの乾ける砂のごとくにも吾ありなむかあはれこの砂
うつせみの人のにほひも絶えはてて日もすがらなる霧にくらみぬ
にはか雨山にしぶきて峡(かひ)ひくく虹たちにけり常ならなくに
山の雨たちまち晴れてわがにはの杉の根方(ねがた)に入日さしたり
みづうみに入る山がはは細けれど杉生(すぎふ)の中に音たぎちけり
ものさびしき心に覚めむありありと後幾とせの現ともよし
たたずめるわが足もとの虎杖(いたどり)の花あきらかに月照りわたる
月よみの光にぬれて坐れるは遠き代よりの人のごときか

149「暁紅」

ひさかたの乳いろなせる大き輪の中にかがやく秋のよの月

特にこの一首は、月そのものに集中して賛美したのが特殊である。「大き輪の中にかがやく」は、満月のかがやくさまを、月という概念を離れて物そのものに即して、月輪の中にたたえられた乳白色のみずみずしい光をいい当てている。古来月の歌は多いが、こういう把握は、類例がありそうで、しかもないだろう。「秋のよの月」は常套の表現で可も不可もないが、上句によって生きもし、死にもする。「ひさかたの」は「天」にかかる枕詞、「雲」「月」などすべて天に関わる語に冠せられる。この一句が不即不離に一首全体にひびいていて、意味合いよりも声調に味わいがある。凡手の思い及ばない用法である。古いようで新しく、即物的のようで古雅で、一首に讃嘆のいぶきがたちこめている。

150「暁紅」いめのごとき

いめのごとき薄き雲らも或る時は紅葉の紅き山にいさよふ

高山だから雲が紅い紅葉に触れて動く、その淡い雲を「いめ(夢)のごとき」といったのが一語に捉えたという感じのする表現である。同じように「或る時は」といったのもよい。

参考
このあしたくれなゐ深くいろづける山の膚(はだへ)に雲触りゆくも
わがまえにもみぢせる山夢のごとただよう雲の触りてゆくやま。
しぐれ降るなかに立てれば峡(かひ)にして瀬の合ふ音はさびしかえりけり
しげり立つ枝をとほして下谿(しただに)に川の瀬々なる浪うごく見ゆ

いざよう -- 1 進もうとしてもなかなか進めない。躊躇(ちゅうちょ)する。ためらう。2 進まないでとまりがちになる。停滞する。とどこおる。

151「暁紅」冬の光

冬の光さしそふ野べの 曼珠沙華青々としたる一むらの草

一句の終わりが名詞、三句の終わりが名詞、結句が名詞という形態も常識を越えている。それでいてただよう哀韻のひびきが長い。あたたかい心がそのま流露したような趣がある。「冬の光」の下に散文ながら「の」という助詞があるところだし、「曼珠沙華」の下に「よ」という感嘆詞があるところだし、「青々としたる一むらの草」の前に「その」を補っていいところでもある。そういう助詞副詞の省略された句の間からにじむ讃美の声が聞えている。

152「暁紅」常にして

常にして人は見らむか紅に綾なす山に雪降りせまる

美しい紅葉ににわかに雪の降りせまる状景である。敬虔に即して、美しい紅葉に雪のせまる自然の威力を表現しているのは珍重していい。

参考:
もろともに動かされむとおもふまで山荒れとなり恐るる吾は
峡のみづしぶきをあげてもろ木々のいたいたしきまで風はとほりぬ
山をおほふ吹雪となりぬ白骨の峡の一ところに吾のゐるとき

153「暁紅」この二人の

この二人の男女のなからひは果てとなりけり罪ふかきまで

性欲は人間の切実な本能であるという人間的諦視が根本にあった。だから事件的な興味を洗い去って純粋詠嘆としてここに結晶しているのである。男女の関係を単純に言葉を述延べていって、「果てとなりけり」と強く詠嘆して、終わりを「罪ふかきまで」と収めたこの単純化が良い。そして、何ともひびきが長く深い一首である。

154「寒雲」北とほく

北とほく真澄(ますみ)がありて冬のくもり遍からざる午後になりたり

朝から寒く閉じていた曇り空が、午後になって少しの晴れ間も見えるようになった。こういう天象の変化はめずらしいものではないから人は意にとめようともしないが、あらためて掌にとるようにして示されると、その意味に驚くだろう。寒く暗澹とした冬曇りのなかにきざしてくる平安がここにある。現実を見る目がいかみの深いのにおどろかずにらいられない。

「北とほく真澄がありて」という上句は、見た実質だが、言葉が的確で、しかも簡潔で味わいがある。「とほく」など常凡のくわだておよばない言葉だろう。さらにいえば、上句の実質は人は見ることができる。しかし、「冬のくもり遍からざる」とまではいい得るとは限るまい。(中略)言葉の運びがこのように性急でないのも短歌の美しさだ。そして言葉が深く心にくい入ってゆく、その声調が短歌の厚さだ。

155「寒雲」さだかならぬ

さだかならぬ希望(のぞみ)に似たるおもひにて音の聞こゆるあけがたの雨

明け方の雨の音を、何か漠然とした希望のような気持ちで寝床で聞いている。ひと雨ごとに暖かになる頃の心の和む様な雨音を「さだからなぬ希望に似たるおもひ」といったのが実にいい。いうべきことをいいおおせたという安らかな形態の一首である。

156「寒雲」一冬は

一冬は今ぞ過ぎなむわが側の陶の火鉢に灰たまりたる

冬が過ぎて火鉢もそろそろ使わなくなるだろうという頃、火鉢の灰も一冬の間に傘が高くなったときづいているところである。言葉も平成で特に目立つ抑揚はないが、「わが側の陶の火鉢」というように具体的なものをのがさず、自分に即している。そのために現実感が一首にはたたえられている。

157「寒雲」山なかに

山なかに雉子(きぎす)が啼きて行春(ゆくはる)の曇りのふるふ昼つかたあはれ

「行春の曇のふるふ」がことに単純で豊富な句である。晩春の曇り日の静けさが、「ふるふ」によってかえってかんじられるし、冷気も孤独感もここから感じられる。それにしても「曇のふるふ」は光沢のある深刻な言葉である。作者は「写生」主義者だが、作者の写生はこういうところに到達していた、いくら鋭い生地の声でも曇りが震えるはずはあるまいという程度の常識を越えて、真実をためらわずに強く捉えて、真実をいい当てたのである。

154「寒雲」うすぐらき

うすぐらき小路をゆきて人の香をおぼゆるまでに梅雨ふけわたる

(中略)私の享受によれば、人の生活のにおいを「人の香」といったのだろう。そう取って子の表現に感心している。(中略)たとえば畳にふく黴のように、空気に漂う匂いを「人の香」といったのだろう。「人の香」に「梅雨」ふけを感じたところに深さも新しさもある。

155「寒雲」みなもとは

みなもとは石のかげなる冬池や白き鯉うきいでてしましあぎとう

「みなもとは石のかげなる」湧水をたたえた池だから、冬でも鯉が泳いだりする。この上句によって情景に意味が添うのである。下句で「うきいでて」といい、「あぎとふ」というから、間に「しまし」と濁音を避けて言うところも至った技巧である。

156「寒雲」干潟にし

干潟にしあるか無きかゐるものの紫の毒吐き出すあはれ

干潟にいて、保身のために「紫の毒吐き出す」ものは「海牛」である。それをあからさまにいわないで、ただ「あるか無きかにゐるもの」と、微かなはかない小動物とだけいったのが巧みである。別のところに「草はらの中に小流れの泥に住む儚きもの等出でて雨に濡る」という歌もある。これは水辺の蟹だが、このようにあらわにいうべきところには、確かにいい、いわないでよいときはいわないのが歌の味わいである。

参考:
楤の芽の萌えしばかりを食わむとて軍手をはめし君が手摘むも

157「寒雲」わたつみの

わたつみの砂浜よりも悲しかる常水(とこみ)づく土黒く続きつ

沼や池の汀にある濡れた泥土は、海の砂とちがってものがなしい。この感覚は今までの日本の詩歌にはなかった。それだけではない。作者は、この感覚は西洋詩的であるように見えるが、西洋人にはこの感覚はわからない、といっている。伝え難い感覚だから、わからせるために「砂浜よりも悲し」と比較をおいたのである。

158「寒雲」みづからの

みづからの食はむ米もち入りて来し狭(かひ)の大門に雲とぢわたる

事変下で食料事情も窮屈になっていたから、「みづからの食はむ米もち」といった、そして箱根の山峡に入っていくわけだが、その狭の入り口に雲が重く垂れているというのである。
事実をそのままいって、うれしいとも悲しいとも言わないが、そういう主観できまりのつかない現実のおもしろさがある。この歌に限らず、作者の歌には事実そのものにある不尽の味わいを見据えた作が多い。
159「寒雲」いつしかも

いつしかも楢の木立に平らなる流となりて砂地さへあり

散歩していて気づいたささやかな水のながれである。楢の林と川、浅い流れと砂地、山水の条件を具備しているこの小景は、小景ゆえにかえって心を遊ばせる。平安で楽しい風景である。
言葉が簡浄で、「楢の木立に平らなる流となりて」あたりは主語を省略して、そして散文で伝えられない悠々とした語気がある。「砂地さへあり」に至っては、大切なものをただひとつ手にとって見せたという把握である。浅い流水を「平らなる流」といったのがいいし、「さへ」という助詞には感嘆詞のような心ン調子がある。平安で悠々としているが、声調には微かな哀韻もある。またいえば、「砂地」は単にこころよいだけではなく、ささやかであっても「砂地」は川の洲であり、曲があれば洲ができるという自然生成の姿でもある。

160「寒雲」しづかなる

しづかなる午前十時に飛鳥仏の小さき前にわれは来りぬ

仏像を見たのはどこかということもいわず、ただ「午前十時」に「前にわれは来りぬ」とだけいっている。たとえば、脳の所作などのように、極度に簡素なあ表現が帰って暗示的である。詳しい説明をせず、博物館らしい特徴を捉えているこの表現は、説明と描写戸を排するのは詩の常といっても、まったく見事というほかない、この単純化は威力の十万に拠って可能であるし、この単純化があるから、歌が暗示的に響くのである。

161「小園」星空の

星空の中より降らむみちのくの時雨のあめは寂しきろかも

空が晴れて月が照りながら雨のはらつくこともある。それは、見えない雲の降らす雨を風が運ぶのだが、常にそうだというのでもない。それを「みちのくの時雨のあめは寂しきろかも」と、当然あるものの代表のように言って物語でも話すような、寂しい感銘を伝えている。このように細部がなく、感情のままに流路しているから、「星空の中より降らむ」という上句の、閑寂がきわだつのである。

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