斎藤茂吉の短歌の鑑賞と解説「茂吉秀歌」2つゆじも・ともしび - 短歌のこと

佐太郎の茂吉解説 茂吉秀歌

斎藤茂吉の短歌の鑑賞と解説「茂吉秀歌」2つゆじも・ともしび

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岩波新書版「茂吉秀歌」からの抜粋です。斎藤茂吉の短歌に一首ずつ、佐藤佐太郎が表現技法を解説、鑑賞のポイントを書き加えたものをまとめたものです。

鑑賞の際に参考になさってください。

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斎藤茂吉短歌解説 佐藤佐太郎『茂吉秀歌』2

51「つゆじも」ゆふぐれの

ゆふぐれの泰山木の白花はわれのなげきをおほふがごとし

泰山木はもくれん科の常緑喬木で、葉は濃緑色で光沢のある大形、花は白色で芳香の強い大輪花である。その白い豊かな花が、夕闇の中にあざやかに浮ぶように見えている。

それを、「われのなげきをおほふ」といったのは、いくばくかのの感傷と平安とをたたえた表現である。

52「つゆじも」湯いづる

湯いづる山の月の光は隈なくて枕べにおきししろがねの時計を照らす

初稿「湯いづる山の月の光はくまなくて枕べのしろがねの時計をてらす」。「湯いづる山」は文字通り温泉の噴出している山だが、「温泉嶽」という地名からみちびかれていることはいうまでもない、そして固有名詞であるよりもかえって何か暗示的な陰影を帯びることになった。

こうして一句が七音になったが、そのために下句の声調がやや軽く感じられるので、四句を「枕べにおきし」とし、五句を「しろがねの時計を照らす」と十二音にして一首の声調を整えたのであろう。

計らいのないのびのびとした言い方のうちに静かな香気がただよっている。

53「つゆじも」のぼり来し

のぼり来し福済禅寺(ふくさいぜんじ)の石畳そよげる小草とおのれ一人と

「福済禅寺の石畳」が特殊な要素で、そこに置いてある陶楊(別字)のようなものに一人腰をかけて「そよげる小草」を見ているという下句がまた静かでつつましい。

54「つゆじも」海のべの

海のべの唐津のやどりしばしばも噛みあつる飯(いひ)の砂のかなしさ

「しばしばも噛みあつる」不快、ひいてわびしさは境遇の悲哀につながっている。「悲しさ」といして表現したのが歌の味わいであり、「しばしばも噛みあつる」という的確な言葉の中に詠嘆がこもっている。


いつくしく虹たちにけりあはれあはれ戯れのごとくおもほゆるかも

55「つゆじも」みづからの

みづからの生(いのち)をしまむ日を経つつ川上がはに月照りにけり

生命を哀惜する療育の日々(中略)そしていよいよ秋になって、清い月光が川上川の上に照っている。歌は過ぎてゆく時間に対する感慨で、後年に渡ってこの作者の歌境のひとつになっている。中でもこの歌は清く敬虔で、どことなく感謝のこころがにじんでいる。

他。唐津の作。
朝の渚に眼つむりてやはらかき天つ光に照らされにけり

56「つゆじも」牛の背に

牛の背に畠つものをば負はしめぬ浦上人(うらかみびと)は世の唄うたはず

畑の収穫物を人が負って牛馬を使用しないのは、キリスト者として敬虔な信仰にもとづいている。また、「世の唄」つまり俗謡民謡というものをうたわないのみ、キリスト者としての信仰に基づいている。かたくななまでに信仰を守って、貧しく清い生活を送る「浦上人」に寄せる同情と賛嘆の声である。輪郭を記述したにすぎないような唄だが、実は深い感慨がこもっている。「牛の背に畠つものをば負はしめぬ」など、言葉がねんごろで遠い物音のような哀韻がある。

参考。
雨はれし港はつひに水銀(みづがね)のしづかなるいろに夕ぐれにけり

57「つゆじも」松風の

松風のおともこそすれ松かぜは遠くかすかになりにけるかも

「こそすれ」は強めていうかかり結びの言葉である。松風の音がするというのだが、そういって松風の音を聞きとめて耳を傾ける状態を表している。そうすると聞いている松風の音はようやく遠く微かになったというのである。

それを聞く作者の孤独な姿が影のようににじんでいる。歌調がまた雑音をまじえない諧和音で、清く安らかな響きを息長くたたえている。

58「つゆじも」

ながらふる月のひかりに照らされしわが足もとの秋ぐさのはな

月光に照らされた秋草の花で、現実であって現実出ないような幽かな美しさを現わしている。「ながらふるは流れるを延べた言い方だが、「ながらふる月のひかり」とつづくと、流れるような月光ということで、清明とも言うべき月光がこの単純な言い方に抱擁されている。

言葉は単に音調だけでととのえるのでなく、 直観的な内容に従って言葉がこのように結晶しているのである。また「わが足もと」が確実な把握である。

59「つゆじも」

飛騨の空にあまつ日おちて夕映のしづかなるいろを月てらすなり

山上の空に残っている夕映に、東天に上った月の光がおよぶところである。色彩と空気の微妙な美しさを余すところなく表現している。こういう稀にある、微妙な美しさを、このように安らかにおおどかに表現しているのは驚くべき力量だといっていい。

長崎の歌でも「水銀のしづかなるいろ」といったが、ここでも「夕映えのしづかなるいろ」といっている。現れたところを見れば慣用の手法ということになるのかもしれないが、現実に即してこういうのは容易なことではない。

それからすぐ結句を続けて「しづかなるいろを月てらすなり」と言ったのが確かでもあり、単純化の極致でもある。「あまつ日おちて」から「夕映の」とつづくところ、また「いろを月てらす」というところなど、言語感覚の鋭敏なこの作者としては当然だが、尽きない味わいがある。

60「つゆじも」


わがいのちをくやしまむとは思はねと月の光は身にしみにけり

自分の生命・運命を嘆き悲しむつもりはないけれども月の光が身に沁みるというのである。「思はねど」といって、「身体的背景」を嘆く状態が出るのである。「月の光は身にしみにけり」という平凡無欲に徹した表現が実にいい。

「朝の渚に眼つむりてやはらかき天つ光に照らされにけり」というのと通う心境である。

61「ともしび」かへりこし

かへりこし家にあかつきのちやぶ台に火焔(ほのほ)の香する沢庵を食む

(病院の全焼後)、ひとつのちゃぶ台に集まって朝食すると 沢庵が焦げくさい。それを「火焔の香」といったのは歌人としての力量だが、この覇気に満ちた言葉があって、一首は不思議な切実さを帯びている。「家に」と いってさらに「ちやぶ台に」という渋るような調子も、「ちやぶ台」という俗な語も、現実の切実さと一体になって重厚に響く。

62「ともしび」家いでて

家いでてわれは来しとき渋谷川に卵のからがながれ居にけり

たまたま外出して、街中を流れている川を見て「卵のからがながれ」ているといったにすぎないが、この平凡な光景が不思議に切実な悲哀の感じを伴っている。「われは来しとき」の「は」は、やや目立つようだが、全体にテニヲハの多い歌だから、ここにアクセントを置くような表現によって歌調が締まっている。

63「ともしび」ひかりさす

ひかりさす松山のべを越えしかば苔よりいづるみづを飲むなり

一首はほがらかでひびきがかたくそして清澄である。「ひかりさす松山のべを」とか「苔よりいづるみづ」とかは、そういう気持ちを起させる大切な要素だが、この単純でしかも充実した言葉の光輝はいつになっても褪せるということがないだろう。

64「ともしび」さ夜なかに

さ夜なかにめざむるときに物音たえわれに涙のいづることあり

単純化し、極限まで浄化して出来上がった一首である。何時、どこ、なぜ、というような条件もなくなって、ただ夜半に眼が醒めていると涙が湧いてくるといったに過ぎない。そして「ことあり」といって、やや普遍的な表現をしているために、同じ悲哀といっても澄んだ感じが伴っている。また「ことあり」と抽象化した言い方をしながら、依然として作者の嘆声がこもっているのは「われに」という語がはいっているためである。「われに涙のいづることあり」という四五句は、抒情詩としての短歌の表現のあるべき姿を暗示しているといってもいいだろう。いろいろなものを切り捨てるようにして単純にいっていながら、ただ「物音たえ」という具体だけをいったのが作歌の力量である。この三句がすべての重量をささえている。
65「ともしび」目をあきて
目をあきてわがかたはらに臥したまふ和尚のにほひかなしも
窿応和尚のいたいたしい常臥のじょうたいをいっている。体を動かすことがないけれども目ざめている。それで「目をあきてわがかたはらに臥したまふ」といった。ずっと常臥のままだから病者の体臭がある。それで「にほひかなしも」といった。言葉が確かでおのずから哀韻がある。

この時期の作は「近江蓮花寺行」として12首ある。

中山道みちひだりながはま越前みちとふ石じるしあはれ
このみ寺に仲時の軍やぶれ来て腹きりたりと聞けばかなしも
あかつきも木菟なけり寺なかに窿応上人やみてこやせる
となりまにかすかなるものきこゆなり夜半につまぐる数珠はきこえぬ

66「ともしび」今日の日も

今日の日も夕ぐれざまとおもふとき首(かうべ)を垂れて我は居りにき

軽快でない虔ましい状態が現れている、作者はどういう場所にいたのか、そういう背景のないのがかえって暗示的で嘆息の聞こえるようなこの苦悩にみちたような自画像を際立たせている。上三句ものびやかでしかも切実な語気である。

67「ともしび」こもり波

こもり波あをきがうへにうたかたの消えがてにして行くはさびしゑ

鞍馬渓の歌で、上流の瀬から流れて来た白い水泡(すなわち「うたかた」)が消えずに流れて行くところである。淵であるが流れのうねりがある。それを「こもり波」といったので、これは作者の造語である。「さびしゑ」の「ゑ」は意味のない感嘆詞。この一語だけでなく全体が古調である。

68「ともしび」さ夜ふけて

さ夜ふけて慈悲心鳥のこゑ聞けば光にむかふこゑならなくに

この四五句は単純で大柄でしかも切実でたいへんいい。あるいは言葉の光沢がありすぎるように感じる人もあるかもしれない。しかし、短歌はこのような光沢をまったく否定しては味わいというものがなくなるだろう。調子が張っていて響きが強いのはこの作者の特徴だが、この辺りの歌は特に言葉が響いている。

69「ともしび」うごきゐし

うごきゐし夜(よる)のしら雲のなくなりて高野(たかの)の山に月てりわたる

「月てりわたる」という単純でさわやかな言い方は、日本語の長所であるが、これに「高野の山に」が付いてはじめて個性的になったのである。しかしさらにこの下句は上句によって生きもし、死にもする。「むづかしい」(茂吉自註)というのはその意味である。この歌では上句がやはり見事である。自註にいうように「夜の白雲」のかがやくような」明るさがこれだけで特殊で美しい。そのあとの月光というので、いよいよ清澄深秘な空気が暗示されることになる。

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