あらたま 茂吉一首鑑賞

ふり灑ぐあまつひかりに目の見えぬ黒き蛼を追ひつめにけり 「あらたま」斎藤茂吉

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斎藤茂吉「あらたま」から主要な代表歌の解説と観賞です。
このページは現代語訳付きの方で、当ブログのまるがまとめたものです。
他に佐藤佐太郎の「茂吉三十鑑賞」に佐太郎の抽出した一部の歌の解説と鑑賞がありますので、併せてご覧ください。
「あらたま」全作品の筆写は斎藤茂吉「あらたま」短歌全作品にあります。

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ふり灑ぐあまつひかりに目の見えぬくろき蛼(いとど)を追ひつめにけり

 

現代語訳
地に降りそそぐ空の光に目の見えない黒いカマドウマを追い詰めたのだ

出典
「あらたま」大正2年 1 黒き蛼

歌の語句
いとどは虫偏に車の漢字。カマドウマのこと 
あまつ・・・あまつの「つ」は上代の助詞。「天の」「天にある」
カマドウマは、目が見えないわけではないが、「秋の日光に照らされている彼らはおそらく眼が見えないだろう」「目の見えぬ」は作者の主観である」とあるので、「ひかりに」の「に」は、まぶしい光のために、という意図らしい。

解釈と鑑賞

ダイナミックな不可思議な歌

ダイナミックだが不可思議な歌でもある。

11月時点での初案では、上句は「あかねさす昼は昼ゆえ」であって。光の明るいところでは、コオロギは眼が見えないということを主張することが主眼だったようだ。

「作者の主観」と併記してあるので、そうまでしてなぜその想像を成立させたかったのか、このこだわりがまず不可思議である。

上の初案を赤彦宛ての寄せ書きに記した際に、「この歌は大得意なり。大兄以ていかんとなす」と茂吉が記した通り、一連を気に入っていたようであるが、コオロギのような小さいものを追い詰めることへの高揚に共感できる人の方が稀だろう。

歌の背景と心境が取りざたされるが、判明には至っていない。管理人私はこれについて一つの仮説を持っているので、いつかこちらについても記したいと考えている。

なお、小池光に
「あかねさすひかりに出でて死にたりしかの髪切蟲を父ともおもへ」
というのがあり、おそらくこの歌の影響か、または「あかねさす昼の光の尊くておたまじやくしは生れやまずけり」とも類似があり、茂吉の本歌取りとも思われるのも興味深い。

佐藤佐太郎の鑑賞と解釈

そのこおろぎを「追ひつめにけり」は、どういうことなのか、こおろぎのようなかすかな生物であっても、それを冷静に傍観するというだけでなく、そこに何かの関係をもないでは満足しないという性向の現れといってもよいだろうし、サジズム的傾向の現れといってもよいだろう。(中略)
もっともサジズム的傾向といってもだれにでもある一面であるから今まで短歌になかった心理面を開拓するという意図であったかもしれない。「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

一連の歌

1黒きいとど
ふり灑(そそ)ぐあまつひかりに目の見えぬ黒き蛼を追ひつめにけり
秋づける丘の畑(はた)くまに音たえて昼のいとどはかくろひいそぐ
あかねさす昼のこほろぎおどろきてかくろひ行くを見むとわがせし
畑ゆけばしんしんと光降りしきり黒き蟋蟀の目のみえぬころ
まんじゆ沙華さけるを見つつ心さへつかれてをかの畑こえにけり

 

この歌の次の歌

 

あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり

 

現代語訳
あかあかと一本の道が野に通っている。それこそが私の命であるのだなあ

出典

「あらたま」大正2年 6一本道

歌の語句

「あかあかと・・・作者の他の歌同様「明々」か「赤々」かの区別がはっきりしないが、ひらがなで記されたときは、その両方を含むと受け取ってよさそうだ。 
たまきはる・・・枕詞「いのち」にかかる。「魂極まる」「魂刻む」の意味で万葉時代から使われた。
なりけり・・・なり+詠嘆の助動詞「けり」

表現技法

三句切れ
「たり」-「なりけり」の韻あり

解釈と鑑賞

作者自身がこの歌を述べて、「秋の一日代々木の原を見渡すと遠く一本の道が見えている。赤い太陽が団々として転がると、一本道を照りつけた。僕らはかの一本道を歩まねばならない。」とある。

 

作者の注

また、「この一首は私の信念のように、格言のように取り扱われたことがあるが、そういう概念的な歌ではなかった」。

概念的云々というのは、スローガン風の歌ではないという意味。
ちなみに「概念的」という言葉は、アララギ派の内では、評の際によく聞かれる言葉である。

「左千夫先生の死後であったので、おのずからこういう主観句になったものと見える」ともあるが、風景自体は代々木原の実景をもとにしているものである。

 

「僕ら」というめずらしい複数

「僕ら」はやはり当時のアララギのメンバーを差すのだと思うのが自然であり、師の伊藤左千夫の逝去後に自分自身を叱咤激励し、同時に他の面々にも呼び掛けたい気持ちもあったのだろう。

 

揺れ動く心

なお、塚本邦雄はこの一首前の「野のなかにかがやきて一本の道は見ゆここに命を落としかねつも」に、上の作との心境の不一致を指摘しながら、「一首のみが独立して、人の口と呼ぶ恐ろしい次元を遊行する例証ではあるまいか」と締めくくっているのもおもしろい。

私自身は、なぜその両方を載せたのかを不思議に思う。この場合は前の歌がなければ、後ろの歌も成立はしないだろう。

そのあとの「こころむなしく」「秋づける」「かなしみて」と比べると、歌に詠むべき心境とはむしろ定まりがたいもので、外界を離れた単体としての人の心などというものはないということを思わされる。

 

佐太郎の解説

強烈に日に照らされて、行く手に見える一本の道は、自分の行くべき道であり、自分の生命そのものであるという、強い断定が一首の力である。瞬間に燃えたつような感動をたくましく定着した点に注目すべき歌である。一首は荒々しく直線的に、単純で力強い。
「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

 

この直感の背後につながるゴッホの絵画をおもうこともできるし、「あかあかと」に芭蕉の句を、「命なりけり」に西行のかげをおもうこともできる。そういう影響は、消化されて血肉となって新しく生きている。斎藤茂吉の短歌の鑑賞と解説(上)(岩波書店「斎藤茂吉選集1」解説)

 

 

 

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