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永井ふさ子と斎藤茂吉との恋愛 結婚できなかった理由とふさ子の優れた短歌

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斎藤茂吉には、結婚以外にも生涯に恋愛の機会が3度あったことがよく知られています。一つは「赤光」のおひろ、もう一つはそれ以前の「おくに」。

「おくに」に関しては必ずしも恋愛ではなかったのではないかとも言われていますが、強い思慕を以ってその死を悲しむ一連の作品となっています。

そして、もう一つが、永井ふさ子との恋愛です。
茂吉の研究をしている人には、どういうわけか「幻の恋人」などという言い方をした人がいますが、二人に深い交流があったところは、今ではよく知られています。

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斎藤茂吉とふさ子の恋愛

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私は最初ネットでその出来事の多くを拾い読みましましたので、当初この恋愛を誤ってとらえていました。
その一つは、責められるべきは茂吉であって、茂吉が悪いという論調というほどではないが、その意見の数々です。私も最初はそう思ったものですが、今は少し違った考えも持っています。

当時永井ふさ子は25歳であって、大人として分別がありながら、なお茂吉を受け入れたということがあって、やはり永井(以下ふさ子、敬称は略します)にとってもこれは恋愛だったのです。
普通の恋愛とは違って、短歌が仲立ちとなる得難い関係であることは言うまでもありませんが、その上で、相手が妻帯者であることを知ってなお、茂吉に愛情を持ったのは違いありませんから、ふさ子にとって良いとか悪いとかの問題ではないのです。

もう一つは、ふさ子が、茂吉の手紙を公表したということについてです。当時の茂吉との約束もありながら、公表に批判的な意見もあるわけですが、これもやはり違うと思うのです。

たとえば、相手が政治家であったということなら、恋愛が政治に影響するなどということは直接的にはありません。しかし茂吉は歌人であり、その作品がどのような生活状況のもとに、どのような発想をたどって形成されたのかということが、今でも研究されているわけです。

ふさ子がどのような意図で公表したのかはわかりませんが、茂吉の歌の資料として、また生活史として、この上なく大切なものであって、永井が保管していたということは、ひじょうにありがたいことです。

茂吉の著述に関しては、日記はもとより、書簡、そして手帳にいたるまでが、作品と結びつくものとして公表されております。

そして、もう一つは、これは茂吉とは直接関係はないことですが、ふさ子の短歌から、ふさ子の苦しみが最初に思ったものよりも、もっと深かっただろうことがわかりました。

なぜそこで短歌をやめてしまったか、生涯独身であったことも含めて、茂吉との関係がふさ子にどのようなものであったか。人と人との結びつきの深さを知ったその次第を、以下に書いていこうと思います。


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茂吉の精神的悲傷 ダンスホール事件

茂吉がふさ子と出会ったのは昭和9年9月19日の子規三十三回忌短歌会でした。その頃の茂吉の生活には、約その1年前昭和8年11月には、これもよく知られたダンスホール事件というのがありました。妻てる子の行状が新聞沙汰になり、茂吉は院長辞任を申し出て別居の生活に入ったのです。

新聞記事などに書かれたその部分です。

取り調べるとこの不良ダンス教師をめぐる有閑女群の中には青山某病院院長医学博士夫人などの名も上げられ醜い数々の場面を係官の前にぶちまけている。その中でも某病院長夫人のごときはあまりに頻繁なホール通いにお抱え運転手にも遠慮して円タク又は三越からわざわざ地下鉄で通い、はなはだしいときは午前10時前に来て田村の出勤を待ち正午まで、さらに共に昼飯後3時まで踊りぬいても飽き足らず、夜も現れて派手な好みの様相で全ホールの人目をひきつつ踊り続けるという有閑マダム振りを発揮、田村などと共に食事を共にするほかに昨年以来横浜市郊外の待合、田端の料理屋、多摩川の待合などを遊び周りダンスホールでも相当評判を高めていたと言われ、博士夫人も7日午後警視庁に呼び出されその行状を聴取されていた。

この事件が大きく報道されたのは、同じようにダンス教師との遊び仲間であった、歌人吉井勇の夫人徳子が聴取を受けたからです。
徳子は吉井が伯爵であったことから、伯爵夫人と報道され、それ自体は罪でも何でもないのですが、徳子が、聴取で文士(里見弴夫妻、久米正雄夫妻)の賭博事件を自白したので、問題が大きくなったのでした。

なおこれについて、徳子の叔母に当たるのが、柳原白蓮が、姪の行状について誤りを述べながら、次のように釈明しています。

1年前にはしばしばダンスに行ったのですが、親類でやかましくいって行かないようにさせたのです。今度のダンスホール事件は一年以前の古傷だろうと思います。ダンスホール園も尾は、いはば満座の中ですから、いわゆる風紀を乱すようなことはできるのもではありません。そこで知り合った方とお茶を一緒に飲みに行くというようなこともありましょうが、それは私交上のことで大連事件のような犯罪が起これば別ですが警視庁としては少しやり過ぎではないかと思います。しかし姪の悪いことは重々で、私の口から弁護いたしません。(後略)

柳原白蓮が詫びながらも、詫びなくてもよい部分について堂々と述べていることに感心させられます。

とにかく、上記のゴシップとして誇張された書きようにおいをみても、茂吉の方の感情の動きは、少しばかりではなかったことが推察されます。

そのような状況の時に、時だからこそ、茂吉はふさ子と「出会った」のです。

茂吉とふさ子の出会い

歌会で、松山生まれのふさ子は祖父母が姉弟同士だった父と子規が幼友達で「のぼさん」と読んでいたことなどを話し、茂吉と話が弾んだと言います。

ふさ子の母は、父とは最初の結婚でなく、前妻の協議離婚後の後妻でした。今ほど離婚は一般的ではなかった時のことです。理由はわかりませんが、ふさ子は後妻ということにもそれほど抵抗を感じるような育ち方ではなかっただろうことを書いておこうと思います。

持病を持っていたふさ子

そして、ふさ子は、茂吉と出会った時は25歳で未婚でした。ふさ子の父は医師であり、身内に学者もいたようですが、当時としては、25歳で未婚というのはめずらしいことで、そのように婚期が遅れたのは、ふさ子が肋膜炎を患ってあと、さらに腎臓病でこの3年前に腎臓を一つ摘出手術を受けており、そのため体が弱かったからのようです。

相寄る魂

ふさ子の写真を見ると、その美貌に驚きますが、周りが年頃になって皆嫁いでいくのに、ふさ子は恋愛にも結婚にも縁遠かったのでしょうか。

あるいは短歌を始めたのもそのためだったのかもしれません。短歌を始めたのが7年頃、アララギに入会したのは茂吉と会う1年前の昭和8年といいます。

そのように茂吉とふさ子、それぞれの状況を見ると、それぞれに持って生まれた苦悩のようなものがあり、二人の孤独な魂が相寄ることを責めることはできません。

歌を仲立ちとして

その時点で茂吉は自ら申し出てふさ子の歌の指導を引き受けており、万葉集から入ったというふさ子の短歌は、初めて間もないもののすぐれたものだったことがうかがえます。
下に筆写する作品を見ますと、それだけ熱心に勉強をしたと思われます。

特にふさ子の方は、高名な歌人に指導を受けられるとあっては、並みの喜び方ではなく
それは恋とは違う、憧憬よりもさらにはげしい、献身の喜悦とでも言うべき性質のものであった」と後に書いています。

ふさ子は東京に下宿していた妹と同居して、茂吉を訪ねるようになります。一緒に行ったのは、山口茂吉、佐藤佐太郎といった、そうそうたるメンバーです。そして、茂吉と二人で出かけるようになり、やがて茂吉の接吻を受けます。茂吉54歳。

相聞のはじまり

松山に帰ったふさ子宛ての最初の歌です。

白玉のにほふ処女(をとめ)をあまのはらいくへのおくにおくぞかなしき
わがこころ妹によるときあめつちもねたむにかあらしうつそみもまた
まぼろしに見江くるきみにうつつなる言かよはずば堪えがてなくに

万葉調で、万葉仮名交じりの歌。この一連は歌集には収録されていないものです。
それにふさ子が相聞歌を送り返します。

悲しめる夜らは身ぬちに兆しくる病ありとおもふ背の痛みきて
冷やびやと暁(あかとき)に水を呑みにしが心徹りて君に寄りなむ

深まる関係

昭和11年

茂吉とふさ子が肉体的に結ばれたということは知っていましたが、それが、あの、6月19日の皆既日食の歌の日だったとは、それまでは全く知らずに読んでいました。

その歌とは

日蝕の日は午後となり額より汗いでながら歩みをとどむ
おぼほしきくもりの中に天(あま)つ日は今こそは欠けめ見とも見えぬに

ふさ子は「この日蝕の日を先生と共に野道で仰いだ」というので、この歌の時は二人でいたことになります。そして日と月が重なるように、二人も深くふれ合ったのでした。

この頃は、茂吉が熱烈な手紙を送ったことが知られていますが、それは歌には関連がないので省きます。

茂吉の日記には同年10月14日にふさ子が青山の自宅を訪ねた記述があるそうですが、その内容はわかりません。

その頃の相聞

ふさ子作

君まさぬ東京に着きて一日こもりこの降る雨やよりどころなし
きれぎれに暁がたの夢に見し君が口髭のあはれ白しも

茂吉作

ひとりゐて吾の心をいたはれるをとめと云はば眼を瞠りなむ
現身に君し居りなば老いづきてわれの濁るをゆるしたまはむ

二首目の「君」は亡くなった中村憲吉です

そしてこの頃には、有名な合作の歌というのがあります。

光放つ神に守られもろともにあはれひとつの息を息づく

下句はふさ子がつけたのですが、最初「相寄りし身はうたがはなくに」と付けたのに「弱い」というので、上のように作り直したら、「今度は大変いい、人麿以上だ」と茂吉が言ったと言います。

最初の別れと復縁

その後は、ふさ子と老翁との間を疑った茂吉が、怒り狂った手紙や歌をふさ子に送りつけたことも今では周知のことでしょう。

ふさ子は別れも覚悟して、正月を松山に帰ろうとするが、熱海まで来て、どうしても茂吉を置いてこれなかったのでしょう、発作的に、東京行の列車に乗って、茂吉の元へ戻ってしまいます。

茂吉はふさ子に逢って落ち着きます。以下は歌集未収録。万葉仮名を直して書きます。

面寄せて一つの息をいきづきしかなしきいもがありありと見ゆ
ま近くに共にしあらばかたみにも口かみあひて訴ふべきに

ふさ子
藤なみのまつはりにつつ君とわれとしとどなりけるはだへかなしも
ぬばたまの闇に見えつつ面影の重なるごとしわが顔の上に

婚約と解消

4月になると、ふさ子は、親の勧める相手と婚約をします。昭和12年のこの時、ふさ子は29歳。結婚するなら最後の機会でしたでしょう。

11月結婚の支度を整えるため上京したふさ子は茂吉と再会、それまでの関係に戻ってしまいます。

周囲で結婚の準備は続いている。婚約者は岡山に帰り、ふさ子は東京に3か月を残ったままで、とうとう周囲にも隠せなくなり、ふさ子はまず茂吉と相談し、話をしたことでしょう。

が、茂吉からは何の返答も得られないままでした。ふさ子は文字通り車中で泣きながら松山に帰ったといいます。

婚約を解消しましたが、肋膜炎の再発と失意で寝付いてしまいます。そして事実を知った父も、驚きと失意で病臥、翌13年10月に亡くなってしまいます。

ふさ子の懊悩

そのあと、さらにふさ子との間は続いたらしく、ふさ子の妹のたけ子がふさ子の結婚について佐藤佐太郎に相談。

ふさ子自身が土屋文明に相談したこともあり、さらに、ふさ子の母が茂吉に手紙、または面談をしたとも伝えられています。
茂吉は、ふさ子に負い目があるため、妹のたけ子の縁談を親身に世話したとも言われていますが、面談の内容はわかりませんし、書かれているものもありませんでした。

しかし、性急に茂吉本人に話さなくてはならないような事柄が、何だったのか、そして、ふさ子と茂吉とがなぜ離れなければならなかったのか、というより、物理的に音信が絶えた理由は戦争と、それぞれが疎開をしたことが理由なのですが、それ以前に、ふさ子が茂吉との別離を決意したとすれば、それはあるいは、この下のふさ子の歌を見れば推し量ることもできるかもしれません。

最後の偶然の出会いと別れ

彼らの関係の結末を先に言うと、19年夏、箱根の強羅山荘を一目見たいとふさ子が訪れると、たまたま茂吉が滞在中であったのが最後です。

食糧難の時でもあり、山荘のあまりの不自由を見かねて、再度食料を持ってふさ子が訪れたといいます。
そして昭和20年5月19日付けの茂吉からの便りの葉書が二人の音信の最後となりました。


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永井ふさ子の短歌

ここから先は永井ふさ子の歌をあげます。

離れてあることの苦しみ

歌集「あんずの花」より。

寒き夜の小床のなかにこほしかるふみをいだくとひとに知らゆな
ただひとりちまたぢゆけどよりそひてふたりしゆくtおもふことあり
へだたりてありとはいへど旅行かす君としきけばましてかなしき
ぬば玉の雲はみだれて迫るごとし寒寒としておのれなげかゆ
恋ひ古布留古許呂都可礼亦(こふるこころつかれて)いねたらしこの朝明の身に力なし
人ごころ険しきなかに一人なる君をばおきて思ひ堪えめや
はがき二枚短冊一葉松風のおときくときは人恋ひをれり
離り住むその折りふしに恋しけむ露葉となりしあんずの老木
しかすがにをみな心はひとつにて悲しきときは悲しき夢を見る

万葉仮名の茂吉との相聞

下は、万葉仮名で書かれたもの(一部重複)を、相聞ゆえふさ子の歌だけではわからないので、これは茂吉と両方。

茂吉
おもよせてひとるのいきをいきづきしかなしきいもがありありとみゆ
くちびるのあかきがなかにいりてゆくうしのちちさへあなねたましも
こひしさのはげしきよははあまぐもをいとびわたりてくちすはましを
ももながにこやせるきみがしらたまのはだへにふれむかうのけむりはや

ふさ子
かなしさをうつたふるともやすらひてわれによれとふきみならなくに
わがくちもちてすはましものをさよどこにわがいきづきのくるしきまでに
かさなれるおもみかあらぬさよどこのふすまをいだきてこひしきものを
ふじなみのまつはりにつつきみとわれとしとどなりけるはだへかなしも

茂吉の送ってくる言葉に倣うところはあっても、ふさ子の歌は情熱的で、驚かされます。
また、一首目は「われによれとふきみならなくに」と、茂吉への望みも書いて送っているところも、率直でもあります。
「私が悲しいと訴えようとも自分のところへ来いという君ではないのに」

二首目、息の苦しくなるまであなたに口づけしたい。三首目、ふたり重なったときの重みには及ばないが、寝床の布団を抱いて恋しい。そして、藤の蔓の絡み合うようにあなたと私とが重なり合ってしとどに濡れるような互いの肌が愛しい。

いたしかたないものの、現代語訳にすると生々しくなってしまうため、意味が取れたら、本当はそのまま万葉仮名で鑑賞するのがいいのです。

茂吉が書簡中で「佳作」とほめた歌は、上と重なるものの

しかすがにをみな心はひとつにて悲しきときは悲しき夢見る
(そうはいっても女の私の心はひとつであって悲しいときには悲しい夢を見るのです)
いくばくの幸をたのまむ現身(うつそみ)のひとの翳さすわが生涯に
(いくらかの幸せを恃むその方が私の生涯に影を差すのです)

という茂吉にとっては耳が痛いものなのですが、茂吉はその出来栄えを褒めてもいます。そして、永井という人は、歌を初めてそれほど経っておらず、若干25、6歳でこのように詠めるのですから、大変に優れた人であったといえます。

歌集の題名「寒雲」を決めた一連

茂吉が歌集の題名「寒雲」を決めたきっかけになった歌を含む一連。

遠国に雪かも降らむこの朝け冬雷(ふゆいかづち)はとどろきにけり
伊豆の海より山にむかひてたつ虹の中空にうすれ現(うつ)しけなくに
ここにしてなほあるわれや空をゆく秋雲はやも光寒けく
日を経つつ小さくなりゆく柘榴の実部屋より鉢を出すこともなし
霜白き草野の中を流れ来る川の上には靄だちにけり
旅来つつわが見下ろせる深谿に黯々として草焼けしあと
蜜雲(あきつくも)吹きはなれたる空あひにたまゆら見えて消ゆる星あり
夏すでにすぎし夜闇のたまゆらを揺曳(ゆ)れつつもとな蛍のひかり
念ひ来しこの青渕よやすらけく寄らしむがごとたぢろぐがごと

5首目「霜白き草野の中を流れ来る川の上には靄だちにけり」は、「寒雲」の中に茂吉の歌として混入し、再販以後取り除かれたものです。茂吉がその出来栄えを喜び、みずからの手帳に書きとめて自作と勘違いしたというくらい、茂吉に倣い、そして優れたうたであるということです。

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果てのない苦しみ

汽車の音とどろきすぎてゆくときの遠くはるけき思ひきざすも
生まれこしえにしおもへばただならぬものぞと独り抗ひたるも
きはまりて悲しき思ひ今はなし萌ゆらむとするもののかなしさ
夜の明くるひととき水のごとくにてこころ寄り処はひと知るや否
いくばくの幸をたのまむ現身(うつそみ)のひとの翳さすわが生涯に
邂逅(わくらば)にいたりしいまの現かはあんずの霜葉土に散りしく

あまりにも絶望的な歌に心が痛む思いがします。

そしてふさ子はこのあと作歌から遠ざかってしまいます。

母の挽歌

その26年後、ふさ子は苦難を共にした母を亡くします。
父親の死後は、長男が永井家の跡をとったのですが、ふさ子の母は後妻なので、長男は実子ではないため、そこに住むこともかなわなかったようです。姉の住まいの方に母と二人して居を移した先での逝去でした。

その母の挽歌。

楠の木は新芽(にひめ)にかはる頃ほひを生命迫りし母に添ひゆく
蠟のごと冷えゆく母の手をとりて添ひ臥すひと夜明けにけるかも
母の御霊いま去りゆくや薄明の空の蒼さの果てしもしらに

他に身寄りのないふさ子は、自分が悲しませたであろう母を看取るに強い心の動きを覚え、その思いを遠ざかっていた短歌に再び託したのでした。

茂吉ゆかりの地を訪ねる

それからさらに9年後昭和49年に、真壁仁氏の招きで茂吉の郷里山形の、茂吉ゆかりの宝泉寺、生家、茂吉記念館、蔵王山などを訪ねた折の歌。

白萩の咲きしづまれるみ庭にも日月(ひつき)の運(めぐ)り留まらなくに 宝泉寺墓参
過ぎにけるひとつ歎きもおきつきになに愬(うつた)えむ淡き秋の日
遺されし背広の前に息をのむその腕に胸に生々し甦るもの
荒神岳ののぼり路にしてあららぎの朱実を食めば亡き人おもほゆ
ひとひらの夕茜雲流らへば最上の川の終のはなやぎ
うつそみの君と相寄るごとくにし聴禽書屋に歩みを運ぶ
もの恋(こほ)しくわれの仰ぎし桂の木巣ごもりゐしは何鳥(なにとり)ならむ

長い歌のブランクを感じさせない歌の数々。
茂吉のゆかりの品々や土地を見て、こみ上げる思いを再び歌に詠んだのでした。

最後の作歌昭和61年

最後の歌というものも残されており、やはり、茂吉への思いが回想されています。

哀れなる結論をもついにしへのクレオパトラもかく匂ひけめ
わが里の城山に啼く夜鳥(よるどり)を君詠みてより五十年経し

ここで、前に戻って昭和13年作の歌をあげます。

後頭より額(ひたひ)いとけなく遺伝せるがわりなきときにおもかげにたつ
汝が面にそそぐ泪よいとけなき心に沁みて生ひたちゆかむ
生ひたちの影をしすててはろばろと天こそ翔けれ汝が空を
あめつちに寄せつつあはれ庇護ありて生ひたちゆかむものならなくに

これは、おそらく忘れがたみを詠んだのではないかと思われます。おそらくふさ子が作歌をやめてしまったのはそのためではないでしょうか。

心に秘めおかなければならないことを持ちながらの歌作は難しい上に、当時は公表を避けたい事情もあったのかもしれません。

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なぜ結婚に至らなかったのか

茂吉とふさ子が愛し合っていたのは間違いありません。その二人が結婚に至らなかったのは、茂吉が妻帯者の婿養子であって、婚家の経営する病院長という社会的地位のためと思われていることが多いようです。

しかし、上のふさ子の歌を紹介した秋葉四郎氏は、二人が結婚できなかったのは、茂吉の健康状態のためと次のように言います。

そしてなぜ茂吉がこの恋愛問題を結婚によって解決ができないかもよくよく(佐太郎は)承知していたのです。(中略)茂吉には限られた未来しか残されていないということであり、その肉体は既にぼろぼろに老いていたということです。

当時54歳の茂吉は自分の命を「僕なんかあとせいぜい10年くらいなもんだ。そっとしておいてくれてもいいと思うんだがね」と言ったことを、佐藤佐太郎が書いています。
書簡中でも自らを「老翁」と呼び、「老いづきし心あやしくみだれたるわが五十五の年ゆかんとす」とも詠み、平福百穂、中村憲吉に次いで、この頃長兄広吉は58歳で亡くなっています。

さらに自分の戒名を昭和9年に、墓は12年に用意しています。とても、これから結婚するなどという精神状況ではありません。

当時の55歳がどの程度の老いであったかはともかく、茂吉が自分の老いと死とを感じていたことは間違いなく、肉体的にもそれを自覚せざるを得なかった。何より本人の意識がそうだったということなのでしょう。それなればこそ、今更になって家族にも周囲にも波風を立てたくない気持ちもあったでしょう。

茂吉という人は、そもそも子供の頃から養子に入り、自分の幸福などということを考えたことはあったのでしょうか。また、そのように人に気遣われたこともあったのでしょうか。
中村憲吉の家を訪ねた折、娘二人に囲まれた憲吉の姿を見て、家庭的な幸福というものを初めて知ったといいます。

ふさ子さんもそうですが、茂吉自身も哀れな人であり、それだからこそ、束の間の恋愛にあれだけ心を傾けることができたのだったかもしれません。

むしろ茂吉にとっては、愛情の薄い生活の中でのそのような出会いは、得難い幸せだったとも言えるのではないかと思うのです。

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