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うつしみの狂へるひとの哀しさをかへりみもせぬ世の人醒めよもろびと覚めよ 精神科医斎藤茂吉が詠う病者の哀しさ

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斎藤茂吉は歌人ですが、正業は精神科医であったことはよく知られています。

最近、精神障害にまつわる事件が相次ぎ、1月の寝屋川プレハブ監禁事件に続いて、障害のある息子を自宅で檻に入れて監禁したとして、父親が逮捕され、男性は保護されたという痛ましいニュースがありました。

思い出す精神科医の医師としての斎藤茂吉の短歌をご紹介します。

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精神科医だった斎藤茂吉

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このブログで取り上げている斎藤茂吉は、日本の代表的ん歌人ですが、正業は精神科医で、その職業に関連する歌も詠んでいます。

としわかき狂人守(きょうじんも)りのかなしみは通草(あけび)の花の散らふかなしみ

気のふれし支那のをみなに寄りそひて花は紅しと云ひにけるかも

この2首は、茂吉が医師になってまだ日が浅い頃のものだと思います。それぞれ、

「若い精神科医私の悲しみは、アケビの花の散る時に感じるような悲しみだ」

「気の狂った中国の女性の患者に寄り添って花は赤いと言ったのであったなあ」

というような意味です。
当時の精神科医療では積極的な治療ができないものも多かったことが、「狂人守り」の造語にうかがえます。

この言葉にはかすかな卑下も感じられますが、しかし、2首目には、女性の患者に「花が赤いね」と話しかける、青年医師の病者へのいたわりが伝わります。

 

受け持ち患者の自殺

当時の精神病院は、北杜夫、この人は茂吉の息子で斎藤茂太さんの弟になるのですが、北杜夫によると、当時の病院は、医療の遅れに加えて環境も悪く、入院中に亡くなる人がたいへんに多かったそうです。

勤め始めた茂吉も受け持ちの患者を自殺によって亡くして、心に傷を負います。

自殺せし狂者(きょうじゃ)の棺のうしろより眩暈して行けり道に入り日あかく
世の色相(いろ)のかたはらにゐて狂者(きょうじゃ)もり悲しき涙湧きいでにけり

受け持ちの患者を死なせてしまった責任を感じながら、自ら野辺送りをする作者。そして、健康な人の集う世界とは隔たった病院においての苦労に涙する自分をも描いています。

ここまでの短歌はすべて斎藤茂吉の最初の、処女歌集『赤光』に載っているものです。
後の留学を経て、茂吉は医師として成長していきます。

卓の下に蚊遣の香(こう)を焚きながら人ねむらせむ処方書きたり『あらたま』

気ぐるひし老人(おいびと)ひとりわが門(もん)を癒(い)えてかへりゆく涙ぐましも「白桃」

意味はそれぞれ

テーブルの下に蚊を払う香をたきながら人を眠らせるための処方を書いた

気が違ってしまっていた老人の患者が、私の病院の門を、治って帰っていくのを見ると涙ぐましくも思われる

睡眠薬を処方したり、元気になって退院する患者を見送ったりする、茂吉の日々の勤務の様子も詠われます。

茂吉が養子になった先は、とても大きな病院でしたが、失火のため全焼したのを再建するなど、苦労もひとかたならないものがあったようです。

のちに落ち着いた頃に詠われる

茂吉われ院長となりていそしむを世のもろびとよ知りてくだされよ「石泉」

(私茂吉は院長となって、その仕事にいそしんでいるのを、世の中の皆様よ知ってくださいよ)

ご子息の斎藤茂太さん、またや北杜夫さんによると、茂吉は精神科医としての研究は好きだったようですが、対人的な仕事は性に合わない面もあったようです。

しかし、医師として診察に当たるだけではなく、大病院での院長としての業務も懸命にこなしていたこともうかがえます。

斎藤茂吉の短歌を読んでいると、医師だったことは全く忘れていることも多いのですが、担当医としても院長としても責任の重ゐ業務で、忙しい毎日の合間を縫って、これほどの作歌を続けていたことにあらためて尊敬の念を覚えます。

 

「病者の悲しみ」を詠う斎藤茂吉

今日の冒頭のニュースに、私が思い出し、ご紹介したいものは、斎藤茂吉の歌集「ともしび」より、下の歌です。

うつしみの狂へるひとの哀しさをかへりみもせぬ世の人醒(さ)めよもろびと覚(さ)めよ (「つゆじも」)

意味:
この世に狂う人の哀しさを顧みようともしない世の中の人よ、醒めなさい、皆目を覚ましなさい

仏足石歌体と呼ばれる、五七五七七七で、普通の短歌の末尾にさらに七音の句を添えて六句とした形の歌です。

この歌においては、病気に侵された当人の悲しみよりも、むしろ、健康で病者へ関心を持たない人に対して、「醒めよ」、つまり、それを知りなさい、気にかけてあげなさい、と呼び掛けています。

これを読むと、自分を「狂人守(も)り」と卑下していた茂吉が成長し、その言葉の通り病者を守る側に立つ、立派な医師となったことがうかがえます。

公費患者を受け入れていた病院に勤務していた茂吉が、病者を守るべき人、守られてしかるべき人と思っていたことは、不思議ではないことかもしれません。

しかし、どちらかというと、歌を読む限り、茂吉がドライとは言わないまでも、医師という自分の仕事を喧伝するということは少ないのです。

そのため、この歌は精神科医としての茂吉をもの語るものとして、あらためて印象に深く刻まれるものとなっています。

北杜夫が斎藤茂吉を語る本。身内でなければわからない事実。定番でもあり貴重な資料でもあります。




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