真砂なす数なき星の其中に吾に向ひて光る星あり 正岡子規  

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真砂なす数なき星の其中に吾に向ひて光る星あり 正岡子規

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「真砂(まさご)なす数なき星の其中(そのなか)に吾に向ひて光る星あり」の正岡子規の有名な短歌を解説します。

正岡子規のこの短歌を、芥川龍之介が『侏儒の言葉』に引用、そこから、正岡子規の短歌の代表作としてよく知られるものとなっています。短歌の内容を解説します。

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真砂(まさご)なす数なき星の其中(そのなか)に吾に向ひて光る星あり

現代語訳

細かい砂のような数限りのない星の中に、私に向かって光る星がある

作者 

正岡子規

出典 

『竹乃里歌』の「星」

※「星」連作全十首はこちら

正岡子規「星」短歌連作10首 「真砂なす数なき星の其中に」他

語の意味

・真砂…砂のこと

・なす【成す】[動サ五(四)]ある形・状態などをしている。「球状をなす」「門前市をなす」など。

・かずなし【数無し】[形ク]意味:数限りがない

歌の意味

彼方で自分を見つめてくれている星、自分だけを照らしている星を心の中に描いている、その心境を表したものです。

空にひときわ明るい星がある、それを単に「明るい星」とはせずに、「吾に向かいて」と捉える。空には無数の星があるのに、そのように一つの星を自分と関係づけていく。それが作者の創意であり、この歌の眼目であるでしょう。

この一連は10首あり、この歌が最初の歌で、次の歌、2首目の短歌は次の通り、星を「母星」と名付けています。

たらちねの母がなりたる母星の子を思う光吾を照せり

最初の短歌の「私に向かって光る星」を二首目ではさらに「お母さんの星かもしれない」子を思う母の光であると空想しています。

一首目においては必ずしも「母の星」は「母の光」に限定はせずに、自分を照らす心の光のようなものがある、と理解してもいいでしょう。

しかし、イメージとしては、この星の「光」とは、母のまなざしのような慈愛に満ちたものであったとも考えられます。

 

作者の正岡子規について

1867-1902 慶応3年9月17日生まれ。

愛媛県出身。帝国大学中退。明治25年日本新聞社入社、紙上で俳句の革新運動を展開。28年以降は病床にあり、30年創刊の「ホトトギス」、31年におこした根岸短歌会に力をそそぎ、短歌の革新と写生俳句・写生文を提唱した。

芥川龍之介が「侏儒の言葉」で引用

「星」と題する連作十首の中の冒頭の短歌でしたが、芥川龍之介が「侏儒(しゅじゅ)の言葉」で、この歌を引用しました。

明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた。

真砂まさごなす数なき星のその中に吾われに向ひて光る星あり

「真砂なす」の歌の背景

正岡子規は慶応3年生まれ、明治35年没の歌人、俳人。晩年の7年間は結核を患い、病床において執筆をしながらも、俳句、短歌の革新に努めました。

短歌の弟子には、長塚節、伊藤左千夫、その流れに斎藤茂吉、土屋文明などがいます。子規の開いた根岸短歌会がのちのアララギ系となり、近代短歌の大きな発展の元となりました。

結核といっても胸部ではなく腸の結核で、気の毒なことに、晩年は立って歩くこともできませんでした。

子規は部屋から外の景色や、植物を眺めることを楽しみにしていました。それだけが、外出もままならない子規の見られるすべてであったのです。

昔の家は窓というものはありませんで、部屋と外との間にあるものは木と紙の障子だけで、それを閉めてしまうと外が見られなくなってしまったのです。

明治33年に仲間の俳人高浜虚子が、当時はまだめずらしかったガラスを探してきて、障子に変えてガラスの窓を作ってくれたので、子規は寒い時、雨の時でも窓を閉めたまま外を見られると、たいへん喜びました。

子規は寝たまま、執筆をしたり、絵を描いたりして過ごしていましたので、動けないままに寝床から空の星を見上げて詠ったものもあるでしょう。

上記の歌については、明治34年の10首の連作の中の冒頭の一首です。
「砂の数ほどある星の中から私に向かって光る星がある」

空にひときわ明るい星がある、それを単に「明るい星」とはせずに、「吾に向かいて」と捉える。空には無数の星があるのに、そのように一つの星を自分と関係づけていく。

それが作者の創意であり、この歌の眼目であるでしょう。




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