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物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞみる 和泉式部 安田登のコラム

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一昨日いただいた冊子に載っていたもの。

「新世」7月号「古典を旅する」より「和歌 菩薩への道」

物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞみる

物思いに沈んでいたとき、ふと顔を見上げると沢を埋め尽くすばかり蛍の一群。それを目撃した和泉式部は、自分の身から抜け出した無数の魂と見た。

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これを和歌的な文学表現だと思ってはいけない。彼女は本当に蛍を見て「あ、私の魂が」と思ったのだ。現代だったら、かなりアブナイと言われるような女性だった。だからこそモテたし、だからこそ菩薩となりえたのである。(注・「歌舞(かぶ)の菩薩」(宗教用語)と呼ばれた。)

彼女は自分の魂を体外に出すことができる脱魂系の巫女体質だったのだろう。(中略)そして、彼女の魂を体から解き放ち、彼女を神仏につなげる装置、それが和歌だったのである。

古来、わが国において和歌は特別な地位を与えられていた。 「古今和歌集」の仮名序には「和歌と言うものは天地創造の時に生まれた」と書かれている。

「旧約聖書」には、天地創造の時には、神の息が言葉になり、そしてその言葉は「光」を生んだと書かれている。

我が国では、言葉は光を生み出すより前に「歌」を生んだ。旧約聖書の「光」に当たるものが日本では「歌」だったのだ。

歌の語源は「うつ」とも「訴える」だともいわれている。神霊をはじめとする声の届かない相手に自分の思いを訴え、そして打つ(感動させる)のが歌であり、また神霊の力を引き出し、通常では考えられないような状態を実現するような神聖な詞、それが歌なのだ。

そういう意味では、歌はソングというよりは「呪詞」といった方がいいだろう。 だから和歌を作るという行為は神聖な行為なのである。

西行法師は、仏像を一体掘るような気持ちで一種の歌を作ったという。 仏像一体を掘るくらいの時間をかけ、推敲に推敲を重ね、無数の言葉を捨て、無数の思いを捨てて、自分の心の深奥にある魂を探し出していく。それが歌を詠むという行為である。 歌は、ふだんは知らない自分の深層に眠る魂に至る通路であるし、そしてだからこそ菩薩への道でもあるのだ。

和歌を詠もう。手あかのついた美辞麗句は使わず、自分の雑物を取り払いつつ、心の奥にある言葉を掘りだすつもりで和歌を詠もう。

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