長塚節の短歌代表作 歌集『鍼の如く』  

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長塚節の短歌代表作 歌集『鍼の如く』

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長塚節はアララギ派の歌人で、小説「土」の作者としてもよく知られています。

長塚節の短歌代表作をご紹介します。

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長塚節とは

長塚節(たかし)は、茨城県生まれ、水戸中学の後、正岡子規に短歌を師事、伊藤左千夫と並ぶ、初期アララギの代表的な歌人の一人です。

長塚節の死因

正岡子規の写生を継承、喉頭結核により、36歳で亡くなりました。

子規と同じ結核で、亡くなったのは生家より遠い、九州の地であり、斎藤茂吉は一周忌に

しらぬひの筑紫のはまの夜さむく命かなしとしはぶきにけむ

君が息たえて筑紫に焼かれしと聞きけむ去年のこよひおもほゆ

の追悼の歌を詠んでいます。

長塚節の代表的歌集は『鍼の如く』

長塚節、代表作品の歌集は『鍼(はり)の如(ごと)く』、発病後の231首が収録されています。

他に弟子が編纂した「長塚節歌集」があります。

他に、農村の風土と暮らしを写実的に描いた新聞連載小説「土」は、長塚節の代表作品の一つです。

 

長塚節の短歌の代表作

長塚節の短歌の代表作として知られる、有名な作品3首は以下の通りです。

垂乳根の母がつりたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども

馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉じて想ひみるべし

白埴(しらはに)の瓶(かめ)こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くにみけり

一首ずつ解説します。

垂乳根の母がつりたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども

読み:
たらちねの ははがつりたる あおがやを すがしといねつ たるみたれども

作者と出典

長塚節「鍼の如く 其の2」

意味:

母が吊ってくれた青い蚊帳、その中にすがすがしいと寝た。たるんでいたけれども。

解説

長塚節は生涯結婚をしませんでした。婚約をしたものの、結核への罹患がわかり、破談になり、その後も母と2人で暮らしていました。

その時代の男性として、母に対しても口やかましい面もあったようですが、母を思う歌も多く残されています。

この歌においても、母が節の世話をしていたこともよくわかります。

「たるみたれども」は老齢の力ない母へのいたわりも含まれているかもしれませんが、やはり、節の目の細かいところと、見たものを直截にとらえる短歌の技法「写生」の反映も見て取れます。

なお、「い寝る」の「い」は接頭語ではなく、「いぬ」で、ひとつの動詞。

この歌の詳しい解説を読む
垂乳根の母がつりたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども/長塚節

 

馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉じて想ひみるべし

読み:うまおいの ひげのそよろに くるあきは まなこをとじて おもいみるべし

作者と出典

長塚節 『長塚節歌集』

現代語訳

馬追虫の小さなひげをそよそよさせながらやって来る秋を、眼を閉じてじっと思ってみるのがよいのだ

解説

序詞の技法の使われた、長塚節のよく引用される短歌作品です。

この歌も、節独特の細かい視点とその描写に驚かされはしないでしょうか。

秋が風景や風物ではなくて、昆虫のひげという微視的なものに集約されて詠まれています。

この歌の詳しい解説を読む
馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉じて想ひみるべし 長塚節

 

白埴の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり

読み:しらはにの かめこそよけれ きりながら あさは つめたき みずくみにけり

作者と出典

長塚節  歌集『鍼のごとく』

現代語訳と意味

白埴の瓶こそ(秋海棠を活けるのに)ふさわしい。霧がたちこめる朝に冷たい水を汲み入れたことだ

解説

長塚節の歌集の代表作が『鍼の如く』その中の代表作品です。

そもそも、歌集題名の『鍼』というのも細い細かいもので、ここにも節の嗜好がうかがえます。

静物画に描かれるかのような瀬戸物の器に、霧の中に水を汲む静謐な朝の空気が伝わるような優れた歌です。

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長塚節の短歌の歩み

長塚節の短歌の歩みを詳しく記します。

子規に会った時の歌

子規のところを訪ねた時は子規のほとんどの作をそらんじていたと言う。

歌人の竹の里人おとなへばやまひの床に絵をかきてあり
人の家にさへづる雀ガラス戸の外に来て鳴け病む人のために(明治三十三年)

それまでの作風とは全く違うもので、古語も少なく言葉もわかりやすいのは、新聞紙上の子規の主張や作風に倣ったものと思われる。

「竹の里人」(さとびと)は「竹の根岸(地名)」からの子規の号。

小説『白き瓶』によると、根岸庵、子規の部屋を初めて訪ね、線香を二本点す間に「見たままを詠むように」言われ、子規と二人作歌したという。

窓のガラスは、それまで障子だった窓に寝たままの子規に外の景色が見えるように高浜虚子が入れたもの。

枝の上にとまれる小鳥君のために只一声(ただひとこえ)を鳴けよとぞ思ふ(座上剥製の鳥あり)

子規を前にしての懸命な気持ちがうかがえる。

節二十二歳、子規三十四才、四月に会う左千夫三十七才。

初期の傑作「ゆく春」

青傘を八つさしひらく棕櫚の木の花咲く春になりにたらずや
樰(たら)の芽のほどろに春のたけ行けばいまさらさらに都し思ほゆ
荒小田(あらおだ)をかへでの枝に赤芽吹き春たけぬれど一人こもり居
都辺を恋ひておもへば白樫の落葉掃きつつありがてなくに
思ふこと更にも成らず枇杷の樹の落葉の春に逢はくさびしも
春畑の桑に霜ふりさ芽立ちのまだきは立たずためらふ吾れは
くさまくら旅にも行かず木犀の芽立つ春日(はるび)は空しけまくも
にこ毛立つさし穂の麦の招くがね心に思(も)へど行きがてぬかも
おもふこと楢のさ枝の垂花(たりばな)のかゆれかくゆれ心は止まず(明治35年)

「にたらずや」なったではないか。「たける」盛りの時期・状態になる。たけなわになる。

「ほどろ」は「(ワラビの)穂が伸びすぎてほおけたもの」か。

「ありがてなし」じっとしていられない、堪えられない。「か」「あのように」の意味の副詞。

万葉集から学んで、初句が「曰くはじめは軽からむことを欲し、終わりは重からむことを欲す。これのみ」。

また結句については「終わりの一句に緊縮せよ」言葉も万葉集にみられるものが多い。

この一連は初期の傑作であるばかりでなく、節の歌風のひとつの基調、「清純で弾力のある声調」と評されている。

子規逝去の報を受けて

年のはに栗はひりひてささげむと思ひし心すべもすべなさ(明治35年)
ささぐべき栗のここだもかき集め吾はせしかど人ぞいまさぬ
何せむに今はひりはむ秋風にえだのみか栗ひたに落つれど

子規逝去の報を受けて。

「この日栗拾いなどしてありければ」の詞書(ことばがき)がある。

「ひりひて」「みか栗」は「拾いて」「いが栗」の古語。

 

吾が心いたも悲しもともずりの黍(きび)の秋風やむ時になしに
秋風のいゆりなびかす蜀黍(もろこし)の止まず悲しも思ひしもへば
もろこしの穂ぬれ吹き越す秋風のさびしき野辺にまたかへり見む(明治35年)

初七日に参ったあと「蜀黍のしげきが中を帰る」の詞書。

「しげき」は「繁木」生い茂った木。

 

写生の歌の悟り

南瓜(たうなす)の茂りがなかに抽(ぬ)きいでし莠(はぐさ)そよぎて秋立ちぬらし(明治39年)

「写生の歌はここだと悟った」と節が語ったと言われる歌が上の歌。

斎藤茂吉はこの作品を同じ子規門の歌人と比べて

「こういう歌風は節の発明にかかるものだと言ってもいいのである」(茂吉)

と評価を述べている。

評価を高くした初秋の歌

「初秋の歌」の連作も評価が高いものとなっている。

小夜ふけに咲きて散るとふ稗草(ひえぐさ)のひそやかにして秋さりぬらむ
目にも見えず渡らふ秋は栗の木のなりたる毬のつばらつばらに
馬追虫(うまおひ)の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想い見るべし
おしなべて木草に露を置かむとぞ夜空は近く相迫り見ゆ
芋の葉にこぼるる玉のこぼれこぼれ小芋は白く凝りつつあらむ
青桐(あをぎり)は秋かもやどす夜さればさわらさわらと其(その)葉さやげり

斎藤茂吉は「万葉集の四季の歌にも無論こういう歌はない」、類似を求めるとすれば「芭蕉を中心とした元禄の俳諧」を挙げている。

転機となる濃霧の歌

群山(むらやま)の尾ぬれに秀(ひ)でし相馬嶺(ね)ゆいづわきいでし天つ霧かも
ゆゆしくも見ゆる霧かもさかさまに相馬が嶽(たけ)ゆ揺りおろし来ぬ
はろばろに匂へる秋の草原を浪(なみ)の偃(は)ふごと霧せまりしも
秋草のにほへる野辺をみなそこと天つ狭霧はおり沈めたり
うつそみを掩ひしづもる霧の中に何の鳥ぞも声立てて鳴く(明治41年)

これまでの繊細精緻な歌と比較して、荘重雄渾な歌。

「ゆ」は、動作・作用の起点を表す。「~から」 動作の移動・経由する場所を表す。「~を通って」の意味の格助詞。

このあと42年から「土」を含む小説の執筆になり、歌は発表されていない。

長塚節の結核罹患

長塚節は、小説の代表作「土」を執筆後、結核に罹患。

余命一年の宣告を受けた。執筆中は中断していた作歌が再び続けられた。

生きも死にも天(あめ)のまにまにと平(たひ)らけく思ひたりしは常の時なりき
我が命惜しと悲しといわまくを恥ぢて思ひしはみな昔なり
往きかひのしげき街(ちまた)のひとみなを冬木のごともさびしらに見つ
知らなくてありなむものを一夜(ひとよ)ゆゑ心はいまは昨日にも似ず
しかといはば母嘆かむと思ひつつただにいひやりぬ母に知るべく

「まにま・に」他人の意志や事態の成り行きに任せて行動するさま。

生きるも死ぬも天のままにと心を平らに思っていたのは健康な時だった。との意味。

「まく」推量の助動詞「む」のク語法。上代語…だろうこと、しようとすること。命が惜しい、悲しいと言おうとして恥ずかしく思ったことは昔のことだ。

知らないでいられただろうことを知ってしまって、一晩で昨日とは心持ちがすっかり変わってしまった、との意味

「しかと」はっきり。

はっきり言えば母は嘆くだろうと思いながらわかるようにだけ告げたというところ。

長塚節と黒田てる子の婚約と破談

長塚節には結核の発病直前に見合いで婚約した婚約者がいました。

結核の罹患がわかったため、破談となったその相手への思慕の情が歌に切々と詠まれています。

元婚約者と手紙のやり取りがあり、花を携えての見舞いを受けた時の歌

春雨にぬれてとどけば見すまじき手紙の糊もはげて居にけり
いささかも濁れる水をかへさせて冷たからむと手も触れて見し
朝ごとに一つ二つと減り行くになにが残らむ矢ぐるまの花
こころぐき鉄砲百合か我が語るかたへに深く耳開き居り

一首目、濡れて届いた手紙の様子。

二首目以下は、活けた花を見舞いの後も愛でる様子。「こころぐし」は悲しく切ない、の意味。

 

小夜ふけてあいろもわかず悶ゆれば明日は疲れてまた眠るらむ
すべもなく髪をさすればさらさらと響きて耳は冴えにけるかも
やはらかきくくりり枕の蕎麦殻も耳には軋む身じろぐたびに

「あいろ」狭くて通行の困難な道。

節の余命短い病のために交際が困難になったことを指します。

ひたすらに病癒えなとおもへども悲しきときは飯(いい)減りにけり

相手からは必ず病気を治すようにと励ましの手紙が送られていました。

再訪を願う礼状を送り50日待ったが、その手紙は家族の配慮から相手の手には届かなかったとされています。

結局、この婚約と恋愛は実りませんでした。

婚約者の兄によって見舞いも禁止を申し渡され、てる子とは二度と会うことはかなわなかったのです。

節の孤独な心持の感じられる小康状態での旅行中の歌。

横しぶく雨のしげきに戸を立てて今宵は虫はきこえざるらむ
手を当てて鐘はたふとき冷たさに爪叩き聴く其のかそけきを

母を思う歌

婚約者を思う歌を記す間に、節は母を思う歌も並行して詠んでいます。

恋しい思慕の情が高まったためでしょう。

我を思ふ母をおもへばいづくにかはぐくもるべき人さへ思ほゆ
我止めば母は嘆きぬ我が母の嘆きは人にありこすなゆめ
生命あらば見るよしもあらむしかすがに人やも母といはばすべなし
おもかげに母おもひ見れば人遂に母たりなむと思ひ悲しも

「ゆめ」は副詞、必ず。

「しかすがに」は副詞「しか」+サ変動詞「す」+接続助詞「がに」からという。

そうはいうものの。そうではあるがの意味。

病床にあって母を思う歌も胸を打つ。

我れさへにこのふる雨のわびしきにいかにかいます母は一人して
いささかのゆがめる障子が引き立ててなに見ておはす母が目に見ゆ
張り換へむ障子もはらず来にければくらくぞあらむ母は目よわきに
ここにしてすすびし障子懐(おも)へれば母よと我は喚(よ)ぶべくなりぬ

 

長塚節代表作『鍼の如く』

節の代表作になる『鍼の如く』から。

全部で200首以上になるので、大正3年の一部の作品のみを掲載します。

白埴(しらはに)の瓶(かめ)こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くにみけり

冒頭は長塚節の代表作。

続きは

曳き入れて栗毛繋げどわかぬまで櫟林(くぬぎばやし)はいろづきにけり

無花果に干したる足袋や忘れけむと心もとなし雨あわただし

唐黍の梢にひとつづつ蜻蛉(あきつ)をとめて夕さりにけり

うなかぶし独りし来ればまなかひに我が足袋白き冬の月かも

たもとほり榛(はり)が林に見し月をそびらに負ひてかえり来われは

しめやかに雨過ぎしかば市の灯は見ながら涼し枇杷うづたかし

菜豆(いんげん)はにほひかそけく膝にして白きが落つも莢をしむけば

草臥(くたびれ)を母とかたれば肩に載る子猫もおもき春の宵かも

 

長塚節の伝記小説「白き瓶」

長塚節の伝記としては、藤沢周平による、伝記小説があります。

小説ではあるのですが、背景を含め、大変詳細に書き込まれており、おすすめの本です。




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