佐太郎の茂吉解説 茂吉秀歌

斎藤茂吉の短歌の鑑賞と解説「茂吉秀歌」3たかはら・白桃・暁光

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岩波新書版「茂吉秀歌」からの抜粋です。斎藤茂吉の短歌に一首ずつ、佐藤佐太郎が表現技法を解説、鑑賞のポイントを書き加えたものをまとめたものです。
鑑賞の際に参考になさってください。

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斎藤茂吉短歌解説『茂吉秀歌』佐藤佐太郎3「たかはら」「白桃」

86「たかはら」家いでて

家いでてちまた歩(あり)けば午(ひる)過ぎし三時といふに日はかたむきぬ

「午後三時」を「午すぎし三時」と言ったのは短歌的に言葉を延べたのだが、同時に言葉の符合以上の意味もこもっている。そして「といふに」といって、「日は」と、日にアクセントを置いた言い方に悲哀の情調がこもっている。「午すぎし三時といふに」などは、事実としては誰もが見ている平凡な事実だが現実の中から取り出すようにして示されると、その重さ厳しさというものに改めて驚かずにいられない。また一二句にしても単純の極致である。突き詰めた単純のゆえに厳しく悲しい歌である。

87「たかはら」あたたかき

あたたかき飯(いひ)くふことをたのしみて今しばらくは生きざらめやも

「あたたかき飯」を食うのは日常普通のことであるが、それを「たのしみて」生きようというのが諦念の現れであり、また生活の深さでもある。(中略)「あたたかき飯」が一見平凡で奇がないだけ、かえって歌に真実性がみなぎっている。短歌における真実の声というのはこれだという語気が流れている。クロッシェカフェ

88「たかはら」羽黒道

羽黒道まうでて来ればくれなゐの杉のあぶら落つ石のたたみに

のびのびと言葉を続けて、四句で「杉のあぶら落つ」と切って、四五句を統治するように「石のたたみに」と据えている。この歌調が静かに安らかで、素材の持つ清い気持ちが自ずから漂っている。

89「たかはら」雲うごく

雲うごく杉の上より白鷺の羽ばたきの音ここに聞こゆる

杉の梢に居る白鷺の羽ばたく音がさわやかであり何か暗示的でもある、それは「雲うごく」杉の上に居るということによってさらに暗示的である。山中であるから低く雲の過ぎることもあるし、杉が高いから雲が触れるということもある。この一句は形式的に整えたのでなくて、実際を言っている。実際をいってこのように簡潔なのがいい。
結句の「聞こゆる」は終止形である。ユ・ユル・ユレと動くので連体形と思いがちだが、「ゆる」を終止形として認容するのは当然である。

参考:
山の上にむらだつ杉の梢より子をはぐくみて白鷺啼くも

 

90「たかはら」ふりさけて

ふりさけて峠を見ればうつせみは低きに拠りて山を越えにき

道が最も便利なところを通っているのは当然だが、現前の風景の中から切実な感動としてそれを受け取っている。

「ふりさけて」は遠く眼を放つこと、「うつせみ」はこの場合は人間一般である。「うつせみは」という「は」一音が付いて詠嘆がこもっている。「低きに拠りて山を越えにき」という四五句も、観相そのままであるが、観相そのものが切実であるばかりでなく、言葉の響きがまた切実である。

91「たかはら」紀伊のくに

紀伊のくに高野の山の月あかししづむ光を見つつ寝にける

霊山である高野山上に照る月光の清明をいい、同時に傾く月の静かさをいっている。一首が単純であることによって、一種崇高な気配が漂うのである。三句を「月あかし」で切って、すぐ「しづむ光」といったところなので、清澄そのものの語気だといっていいだろう。

「見つつ寝にける」という結句は、この時の作に「おく谿はここにもありてあかあかと高野の山に月照りにけり」があるので変化させたものと思われるがこれも 余韻無尽といっていい結句である。

参考:
起きいでて畳のうへに立ちにけりはるかに月は傾きにつつ
高原の月のひかりは隈なくて落葉がくれの水のおとすも

92「たかはら」われの居る

われの居るみ寺の庭に山の雨みだれてぞ降る砂を飛ばして

大粒の雨が縦横にみだれて寺庭をたたくように降るというのである。「みだれてぞ降る」が簡明で強い表現である。それから結句の「砂を飛ばして」がおもしろい。

参考:
杉樹立たちてくらきにたちまちに土は震ひて雷鳴りわたる
降る雨は木々をゆるがす時の間のするどき雷に眼昏まむとす

93「たかはら」松かぜの

松かぜのおと聞くときはいにしへの聖(ひじり)のごとくわれは寂しむ

この一首からひびいてくるものは、身にしみるように遠く清いひびきである。この歌の感銘は新しい古いという境を越えている。煩わしい意味合いがないだけに純粋に情感がしみわたってくる。この作者一代の傑作のひとつである。

「ときは」「われは」という「は」の重出が何ともいいし、「聖のごとく」から「われは寂しむ」と続けた四五句が甘滑でなくていい。

94「石泉」ゆふぐれの

ゆふぐれの薄明(うすあかり)にも雪のまの土くろぐろし冴えかへりつつ

「雪のまの土」はどこに見えるのか、庭であるか、それを特にことわっていないのも必要なものだけをいう表現の単純化の現れである。雪の白さをいわないで、土の黒さを言ったのがこの歌の新しさであり、切実さである。
その小景は「冴えかへりつつという条件のもとに見えていることによって、秩序が感じられるのであるこういうのがいわゆる「ひびく」結句というものだろう。「冴えかへる」は早春の夜間の厳しいことで、俳句の季題にもなっているが、ここで「冴えかへりつつ」と働かして、空気の厳しさを主として言ったのが新鮮である。直感の鋭さ、確かさに敬服する。

95「石泉」よひ闇の

よひ闇のはかなかりける遠くより雷とどろきて海に降る雨

「宵闇になって、心ぼそくはかない感じがその辺りを領して居る、すると雷が遠くから成り近付いて来て強い雨が降って来た」という状景である。「はかなかりける」からすぐ「遠くより」と続くところ、「遠くより」からすぐ「雷とどろきて」と続くところは、実に簡潔でいい。散文に替えることのできない韻文の味わいである。結句の「海に降る雨」がまた簡潔である。


ひくくして海にせまれる森なかに山鳩啼くはあやしかりけり
おもおもと潮きこゆる山に来て病のなごり我はいたはる

96「石泉」くらやみに

くらやみに楢の木原にとよもせる山のあらしを夜もすがら聞く

作者の聞いたものは、くらやみにとよもす風音であり、楢の木原にとよもす風音である。それで「くらやみに楢の木原に」といったに違いないが、この一二句が甘滑でなくて、自然のきびしさをいうのにふさわしい。

結句の「夜もすがら聞く」によって、そこに置かれた人の境遇を思わせる奥行きがある。

97「石泉」本堂の

本堂の明きにひとつ飛び来たるやんまは向きを変へしときのま

開け放って階をしている本堂に「やんま」がとんで入って来て、直角的に方向を変えた、その瞬間を見たというのである。とんぼのうちでもやんまは大型でとくに快い形態をしている、飛んでいる時の形も快い。急に向きを変えたりするあり様などは胸の空くような思いがする。そこでこの一首があるのだが、主観をいわずして、おのずから爽快の感を伝えている。

98「石泉」過去帳を

過去帳を繰るがごとくにつぎつぎに血すぢを語りあふぞさびしき

「過去帳を繰るがごとくに」という一二句に、静かで涙のにじむような親しさがこめられている。


うつせみのはらから三人ここに会ひて涙のいづるごとき話す

99「白桃」こがらしも

こがらしも今は絶えたる寒空(さむぞら)よりきのふも今日も月の照りくる

「冬が深まるにつれて、月の光がますます冴えわたるのを見るのである」(「作歌四十年」)というよるに、寒い空を通して清く照る月光の歌だが、単に眼前の光景というよりは冬という季節の底を覗いたような感慨である。(中略)眼に見えるものは月の光であり、晴れた夜空である。それに対して眼に見えない「こがらしも今は絶えたる」という一二句を据えた。これが自然の秩序を見たというものである。

100「白桃」冬木立

冬木立いでつつ来れば原にしもまどかに雪は消えのこりたる

物かげ、木立の中などに雪の残っているのは当然だが障碍のない原に残っている雪にはまた特別の感じがある。そして新しく平和で静かな自然の一つの相を見たというのが発見であり、同じような観相がこれから後の歌に出てくる。「まどかに」という形容も簡浄で良い。「消えのこりたる」という結句は「万葉集」人麿歌集の一首の結句と同じであり、朗らかで重厚である。この歌は四五句が眼目だが、「冬木立」も「原」もまた必要な条件である。

101「白桃」春の雲


春の雲かたよりゆきし昼つかたとほき真菰に雁しづまりぬ

春の日も昼頃になって、雁は飛ぶこともなく遠い枯真菰の中にしずまっているというのである。(中略)この歌にはそういう雁の移動が収まった後の静かさが豊かに表現されている、眼に見えるものは枯れた「真菰」であり、そこに雁が降りているのだが、その状景の意味は「春の雲かたよりゆきし昼つかた」という上句によって支えられている。

「春の雲かたよりゆきし」も「雁しづまりぬ」も事実だが、二つの物を結合せしめたのは作者の直観である。こういうのが秩序の発見というものだろう。

102「白桃」現在なる


現在(いまのうつつ)なるこよひは寂(しづ)かにて杉まの砂に月照りにけり

響きの長い下句は簡浄の極致といってよい。上句がやや渋るように破調になっているのも下句を生かすゆえんである。この上句が参加することによって、一首は清くて深い人間味がたたえられている。

103「白桃」たえまなく


たえまなくみづうみの浪よするとき浪をかぶりて雪消(け)のこれり

歌はただ見たままを移したに過ぎないように見えるが、作者特有の嘆声がこもっている。不間断に寄せている浪の一つを捉えるように「とき」といい、浪を「かぶりて」といって、映画などの大写しの手法のように言葉の推移する趣に味わいがある。その韻文としての単純化された言い方に主観の響きがある。


かぎろいの日は照らせれどみづうみの浪うちぎはに雪ぞのこれる

104「白桃」このゆふべ

このゆふべ支那料理苑の木立にて蜩がひとつ鳴きそむるなり

「支那料理苑の木立」に蜩が「ひとつ」鳴くという観相が常凡でない。群がって鳴く蝉にはその意味があり、単独に鳴く蝉にはまたその意味がある。ここで「蜩がひとつ」といったのも閑雅でよい。

「このゆふべ」と対象を限定し、「ひとつ」と限定し、「鳴きそむる」と限定して、歌に長い響きを伝えている。たとえば瞬間が永遠として定着されているのが歌の表現だが、この歌などはさしあたりその一例である、「なり」止めの結句はむずかしいのに、この作者の結句はみないい。ひびきが長い。

105「白桃」谷汲は

谷汲(たにぐみ)はしづかなる寺くれなゐの梅干ほしぬ日のくるるまで

寺のひそけさ、暑い夏の日の静かさが、この「梅干ほしぬ」というひとつの事柄によって現れている。場所も範囲もいわないで、ただ「くれなゐの梅干し干しぬ」といった簡素な表現は、簡潔だからかえって容易にできるものではない。そして「日のくるるまで」と時間をいって言葉の響きを長くしている、寂しくてしかも親しい歌である。


遍路らへ留置の手紙一箱に入りつつあるを見てうらがなし

106「白桃」やうやくに

やうやくによはひはふけて比叡の山の一暁(ひとあかつき)を惜しみあるきつ

「比叡の山の」と三句を字余りにしている。一二句を「やうやくによはいはふけて」といい、「一暁」をヒトアカツキと大和言葉流に造語し、全体にゆるやかにのびやかに言葉をつづけている。それだから「惜しみあるきつ」という緊まった表現が調和し、結句としての必要な働きをしている。こういう歌は目立つ素材というものがなく、心境の深さだけが一首を支えている作である。しずかで清いひびきがある。

107「白桃」みづうみを

みづうみを見おろす山はあかつきのいまだ中空に月かがやきぬ

夜の明けた暁にまだ輝きを失わずに中天に見えている月で、夜中の月とはまたちがう清浄感を捉えている。それのみではない。眼下に明るい湖があり、頭上に明るい月があって、その間に微かに作者が立っているという、この世とも思われないような清浄透明なひとときを、経験したものの声をこめている。
下句がまた渾然として重厚だ。普通ならば「あかつきの中ぞらにいまだ月かがやきぬ」とでもいうところをこのようにいっている。「月かがやきぬ」を、「いまだ」と「中空に」と二重に形容したようなものだが、言葉の響きが重厚である。

108「白桃」もも鳥の

もも鳥(どり)のこゑする山のあかつきに大き聖(ひじり)はよみがへりたまふ

「比叡山上の歌」の中。「もも鳥」は百鳥、たくさんの鳥である、「大き聖」は大聖、ここでは最澄伝教大師をさす。「伝教大師がこの暁天にあらはれたまふといふ気持ちである」(『作歌四十年』)
「大き聖」に対して「たまふ」と敬語でいったわけだが、この四五句は実に悠々として大きな句である。また説明を抜きにして四五句はを据えたのもの大きな力量である。


杉むらに音をつたへて夏山の十六谷(じふろくだに)にけふぞ雨ふる
しげ山のなかにこもりて黒谷(くろだに)のみ寺の見ゆるとはのしづかさ

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