佐太郎の斎藤茂吉解説 茂吉秀歌

斎藤茂吉の短歌の鑑賞と解説「茂吉秀歌」4暁紅・白き山・つきかげ

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162「小園」くやしまむ

くやしまむ言も絶えたり炉のなかに炎のあそぶ冬のゆふぐれ

炉ばたで食事をして、食後しばらく火にあたりながら話をするが、その話がしばらくとぎれている冬の夕暮れ。「炉の中」には、木の根などがくべられて、火は盛んに燃えるのでもなく、消えるのではもなく、燃えている。くすぶっていた木の音に炎の筋が走るようにして燃えたち、また炎が走って別のところが燃えたりするのを「あそび火」というが、それを自身の言葉として「炎のあそぶ」といっている。それにしても「炎の遊ぶ冬のゆふぐれ」は、寂しい沈黙の時間を、これ以上の的確さはないと思われるほどの的確さで表現している。一首のひびきに長く美しい遠韻がある。

163「小園」沈黙の

沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ

「百房の黒き葡萄」の「百房」は、葡萄畑で見ればたいして多い数とも思わないが、作者は盛んなながめとしていっているのだろう。その葡萄が「沈黙のわれに見よとぞ」垂れているというのは、「見よとぞ」眼を見開け、そういって、作者は眼をこらして、感動して、葡萄を見ていることを思わせる。(中略)画家の描いた静物に対するように、「百房の黒き葡萄」という部分だけにも何かがある。その上「雨ふりそそぐ」という絵画にない「時間」が添っている。

164「小園」松かぜの

松かぜのつたふる音を聞きしかどその源はいづこなるべき

いわば素材としては陳腐な松風だが、「その源はいづこなるべき」によって感銘はまったく新しい。その風の源はどこだろうか、というのは因由のわからない風音が、ある時間空中に漂っていたところで、首尾のない、こういう夢幻のような風音もこの世にはあるかと、暗示的な風の音を聞いたのである。誰でも知っている松風だが、はじめて知る風音でもある。「松かぜの」と「音を聞きしかど」の間に「つたふる」四音を入れて、言葉をのびやかに、ひびき長くいったのが力量である。このあたりに、一首の価値はかかっている。

165「小園」ひむがしに

ひむがしに直(ただ)にい向かう岡にのぼり蔵王の山を目守りてくだる

読者の受け取るものは「岡にのぼり」「蔵王の山を目守りて」「くだる」一連の行為であり、沈黙に終始するその行為に一首の威厳を感ずる。そして「のぼり」「目守りて」「くだる」というように行為の言葉が多いのに、ちっとも煩わしく、さわがしいところがなく、全体として厳しく強い歌調に統一されている点を見逃してはならない。この悲痛ともいうべき声調に隠然たる威厳があるのは、主観の言葉がないからである。一首の歌から物語的筋書きを求めようとするなら失望するだろう。この歌はそういう程度をはるかに越えている。

166「小園」うつせみの

うつせみのわが息息(そくそく)を見むものは窗にのぼれる蟷螂ひとつ

疎開先のその生活を「うつせみのわが息息」といった。「息息」は「呼吸」の意で、も使用例をあげれば蘇東坡にある「息息安且久」など。孤独で沈黙がちにいる自分の日常を「見むものは」、人間ではない、昆虫の「蟷螂ひとつ」であるというのである。そういうのは「遊び」だが、遊びがなければ味わいのある詩はできない。そして歌は、悠々とした遊びの態度を保ちながら、言語堂々としている。堂々としているのが、傑作の一つの条件である。

167「小園」たたかひの

たたかひの終末ちかくこの村に鳴りひびきたる鐘をわすれず

作者が疎開していた農村では半鐘が鳴ったのであろう。その鐘の悲劇的な音が忘れられないと言って、戦時中のもっとも悲しい音として、戦後に思い出しているのが暗示的である。暗示的だから感銘が深いのは当然だが、なぜ限られたことを言って、このように多くのことを思わせるのか、不思議である。


稲を刈る鎌音きけばさやけくも聞こゆるものか朝まだきより
ものなべてしづかならむと山かひの川原の砂に秋の陽のさす
この国の空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね
秋晴れの光となりて楽しくも実りに入らむ栗も胡桃も
一日すぎ二日すぎつつ居りたるにいつの頃よりか山鳩啼かぬ

169「小園」貧しきが

貧しきが幾軒か富みて戦をとほりこしたるこの村の雪

貧しかった家が栄えたり、そういう変化起伏はいつの時代にも、どこの土地にもある。(中略)村の山も川も、どの家も一様に雪におおわれて、区別なくしずまりかえっているのが片に感動的でもある。「戦をとほりこしたるこの村の雪」という下句に、これが世相だと諦視する人の言葉がある。一木一草に寄せる感動も、このような感動もともに心にひびく。


をやみなく雪ふるときはわが身内(みぬち)しづかになりぬこのしづかさよ
午後一時の時計のおとを聞くころはしきりに眠し雪の降らくに

170「小園」雪ふぶく

雪ふぶく丘のたかむらするどくも片靡(なび)きつつゆふぐれむとす

猛烈な吹雪になって、丘の篁が一方に靡くのが見えながら夕暮れてゆく。その寂しさ。吹きつける雪の強さをいった「するどくも」が確かだし、一方に傾くのを「片靡き」と堅固に形容しているのもいい。一つの状景に一つだけの表現をしようとするから、このような句がある。

171「白き山」しづけさは

しづけさは斯くのごときか冬の夜のわれをめぐれる空気の音す

金瓶で「この村にのがれ来し年の冬至の夜こほらむとしてしばし音絶ゆ」といったが、冬の夜の凍る静かさをここでは「空気の音す」といっている。どちらも真実を言い当てた表現だが、この歌で「空気の音す」といって、たとえば、一声鳴いて山更に幽なり、というように、「静けさ」を強調したのではない。この歌で「冬の夜」でも「空気の音」でも大切な要素だが、吾をめぐってあるという、「冬の夜のわれをめぐれる空気の音」と、確かに対象を捉えた言葉が深切である。こういって、感じさせるのは、直接にはいっていない、厳しい寒気である。これが歌の味わいである。

172「白き山」おしなべて

おしなべて境も見えず雪つもる墓地の一隅をわが通り居り

いちようにどこが境ということもなく雪に覆われた、墓地の一角を自分は通っている。雪に覆われて来る人もなく、どこが誰の墓という区別もなく、ただしずまっている。これが歌としての一つの境地だが、この歌ではさらに「一隅をわが通り居り」といっているのが、また一つの境地である。(中略)「墓地の一隅をわが通り居り」という下句には、重量がある。上句だけでは想像もされない下句が参加して、影が添うことになるのが歌の味わいであり、五句三十一音として完了するのが歌の表現だが、それには特別の工夫というものはいらない。ただ上句も下句も自分の経験を直接にいうことによってそれが可能になる。

173「白き山」幻の

幻のごとくに病みてありふればここの夜空を雁(かり)がかへりゆく

力強く着実に言葉を運んで、しかも言葉をのべていったのは歌人の風格だが、結句を八音にして「雁がかへりゆく」といったのはたいした力量である。たとえば「かりかへりゆく」と七音にしていうのが常道だが、わざわざ字余りにしていったのは、甘滑になるのを避けたのだろう。

174「白き山」水すまし

水すまし流にむかひさかのぼる汝がいきほひよ微かなれども

この四五句が味わい無尽で、四句だけでも五句だけでも出せない感じをこの下句は持っている。

175「白き山」ひがしより

ひがしよりながれて大き最上川見おろしをれば時は逝くはや

逝くものが、水でなく、「時」であるのが平凡に似て平凡でない。こういって、展望の実際をいい、寂しさもいい当てている。また「見おろしをれば」から「時は逝くはや」とつづく言い方がいい。悠々としてしかも充満している語気である。

176「白き山」真紅なる

真紅(まあか)なるしやうじやう蜻蛉いづるまで夏は深みぬ病みゐたりしに

三月から初夏のころまで病臥していたが、いつのまにか晩夏になってショウジョウトンボが出るようになった、というのである。名を知るのはそれだけ正確にものを知ることになる。しかもこの場合のように、歌に不思議な厚みが加わることもある。四句まで一応意味も完了しているが、さらに念を押すように、「病みゐたりしに」と結句つけたのがいい。このように機微に徹して、人生を畳みこむような言葉の響きは無類である。

177「白き山」やうやくに

やうやくにくもりはひくく山中に小鳥さへづりわれは眠りぬ

「やうやくにくもりはひくく」という一二句は、時間の経過を含んだ天候の変化で。表現された言葉は心の落ち着きを感じさせる。一二句の五・七音と、三四句の五・七音とが、対句のようなこころよさをもち、また四句と五句とに一つの対照がある。そういう関係か、秋の山中を領している静かな平和が一首の形態から感じられる。その中に身を置いて、少時の睡眠を楽しんだ作者の満足感をありありと伝えている。

178「白き山」あたらしき

あたらしき時代に老いて生きむとす山に落ちたる栗の如くに

時代が変わって古いものの価値がなくなり、老いたものは置き去りにされるという感想は、良いとも悪いとも言っていないが、悲しい。一首の内容はそれだけでいいが、抽象的な骨組だけでは一首にならないから、具象的な下句をそえて味わいのある歌になったが、味わいは言葉のひびきにある。

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