佐太郎の斎藤茂吉解説 茂吉秀歌

斎藤茂吉の短歌の鑑賞と解説「茂吉秀歌」1赤光・ あらたま

更新日:

18桑の香の「赤光」

桑の香の青くただよふ朝明(あさあけ)に堪へがたければ母呼びにけり

「青く」は、桑の匂いの感じをいったので、感じを生かすことにおいて驚くべき鋭敏さを作者は持っている。まだ人音のしずまっている暁に母を呼ぶというのが切実であり、一種の感動もそこにある。

「堪へがたければ」という激情は、「桑の香の青くただよふ」によって切実さのうちにどこか清新さがあり、不思議な色調をたたえている。

19死に近き「赤光」

死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる

「添寝」は「侍寝」と同じだが、「死に近き母」から続くので通俗を脱している。「しんしんと」は、作者慣用の語だが、この歌では上句にも下句にも連続するように受け取れる。詩の言葉はときに散文的合理性から逸脱する場合があるからそれでよいし、そこにかえって深みの出る場合もある。

四五句の「遠田のかはづ天に聞こゆる」は、直感が的確であるばかりでなく、言葉が荘重である。一二句でやや詰まった言い方をしたから、四五句の荘重さが際立つという点もある。一首は静寂の中に鼓動する悲しみの響きを持っている。

さらにそれを覆うような厳粛さが全体を支配している。それは「死」に隣接した空気として、当然そうであるべきだが、直接には「天に聞ゆる」とういう言葉からつたわる感銘である。

20我が母よ「赤光」

我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ

母の臨終時に際して、ほとんど瞬間的に迫った激情を一気に表白している、こういう種類の歌は従来ほとんどなく、石川啄木に例があるくらいだが、啄木のはもっと余裕があって、これほど急迫した感情ではない。

「死にたまひゆく我が母」でも「我を生まし」でも、実作者の立場から見ればその直接性は驚くばかりである。

21のど赤き「赤光」

のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根の母は死にたまふなり

親類縁者が集まって臨終を見まもっている、そういう緊張した光景をのぞくように、あるいは無関係のように、梁に燕が二つ並んでいるのは不思議に深刻である。その燕を「のど赤き」と端的にいったのもはなはだよい。ひじょうの際にこれだけのものを視たのは、やはり写実の精神が徹底していたからである。

このあたりは作者は未だ「実相観入」ということをいわなかったが、その見事な実行がここにある。この一二句は、短歌表現における単純化と具体化との関係に無限の暗示を投げている。それから「なり」という助動詞の詠嘆的使用法も注意していい。

22おきな草「赤光」


おきな草口赤く咲く野の道に光ながれて我ら行きつも

晩春の野の道を葬送の列が行くところで、過去形に「行きつも」といったのは、そういう事実に感動を込めているのである。

「光流れて」の「光」は日光で、ここでやや大きい休止がある句法である。「しかして」という気持ちを省略して結句に続けている。晩春の日光が降りそそいでいて、その光の中を「我ら」すなわち母の棺とそれを送る人たちが行ったというのである。

(中略)単にそれだけでなく、葬列そのもののつつましさをも表現している。この象徴的な気配は四句から五句に続く連続にある。

23星のゐる「赤光」

星のゐる夜ぞらのもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり

歌は無量の感慨をこめて息永く詠嘆している。「夜ぞらのもとに」から「赤赤と」と続く表現が痛切であり、「母は」から「燃えゆきにけり」とつづく表現が痛切である。その感情の深切によって成り立ち、作者の感慨を一挙に託したという表現である。

24どんよりと「赤光」

どんよりと空は曇りて居りしとき二たび空を見ざりけるかも

重々しくこめた曇りだけをいって、端的に生活の憂鬱を表現している。「二たび空を見ざりけるかも」といって、作者の意識に印象された圧迫感のようなものがあらわれているだろう。この歌について、作者が「「どんよりと」という現代語と、「見ざりけるかも」という万葉調とがどうにか調和しているところにこのあたりの歌の特徴があり、感じも近代的で、調べも緊く厚くなっているように思える。

仏蘭西近代絵画の影響があった」(「作歌四十年」)といっているのに付け加えることところがない。ただ、現代語と万葉調との調和は「赤光」全体に渡る特徴で、それが人々に新鮮な感銘を与えた点を特に注意しておきたい。

25めん鷄ら「赤光」

めん鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり

砂をあびている鶏と剃刀研ぎの気配の中に白昼の領する沈黙の意味を感じ取って、その不気味なような瞬間を永遠のものとしている。
深い生の倦怠をのぞき見ているような歌である。

26たたかひは「赤光」

たたかひは上海に起り居たりけり鳳仙花赤く散りゐたりけり

上句と下句と別々のことをいっているが、この独特の形態は、説明を排して状態だけを投げ出すように言って、言葉には説明しがたい感情・空気と言うものを表現しようとしているのである。

夏の日ざかりに紅い鳳仙花の散る情景には、ここにも沈黙と倦怠のこころがあるが、それは「たたかひは上海に起り居たりけり」と言う背景に拠って特殊になっている。一種鬼気せまるような息づまる静かさが感じられる。

27ひた走る「赤光」

ひた走るわが道暗ししんしんと怺へかねたるわが道くらし

いても立ってもいられないような、焦燥の気持ちをあらあらしく強く歌っている。こういうひたむきな強烈さは、やはり「赤光」の佳境の特色のひとつである。「わが道暗し」は作者の行く夜半の道であるが、おのずから人間的な感慨が参加しているだろう。

歌は、単にせっぱつまったという気持ち以上の混乱をふくんでいる。特に「怺へかねたる」から「わが道くらし」と続けた下句は切実でよい。「しんしんと」の用法も微妙で、「死に近き母に添寝の」の歌と同じように、一首に暈のようなものが添っている。

28あかあかと「あらたま」

あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり

強烈に日に照らされて、行く手に見える一本の道は、自分の行くべき道であり、自分の生命そのものであるという、強い断定が一首の力である。瞬間に燃えたつような感動をたくましく定着した点に注目すべき歌である。一首は荒々しく直線的に、単純で力強い。

29この夜は「あらたま」

この夜は鳥獣魚介(てうじうぎょかい)もしづかなれ未練もちてか行きかく行くわれも

「鳥獣魚介」は鳥類獣類魚類貝類で、やがて森羅万象と意におちつく。「しづかなれ」の「なれ」は、命令、希求である。「か行きかく行く」はあちらに行きこちらに行き、つまり彷徨である。

事件的背景というものがないのは、「赤光」の境地と違うところで、それだけ純一で深くなっていると言っていいだろう。「鳥獣魚介(てうじうぎょかい)もしづかなれ」という句など、宗教的といってよいほどしずかに沁み徹る語気である。

30草づたふ「あらたま」

草づたふ朝の蛍よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ

「われのいのちを死なしむなゆめ」は作者のいう通り、蛍に呼びかけた言葉であるが、蛍をも作者をもこめて、第三の絶対者に向かった言葉としてひびいいている。直感的に単純であるべき抒情詩だからこういう飛躍と省略がまたあるので、意味合いの合理性のみをもとめるとしたら、こういう歌は作れないし、また味わうこともできないだろう。ここに流れている、無限の哀韻だけを受け取るへきである。

31「あらたま」さんごじゅの

珊瑚樹の大樹(だいじゆ)のうへを行(ゆ)く鴉南なぎさに低くなりつも

つやつやと葉のかがやいている珊瑚樹の上を越えて鴉が飛んでゆくところ、それが海の渚の方に向かって低く遠ざかるところである。自然の風景にはこういう計らいのない単純さの中に言うに言われない味わいのあるのを諦視した歌である。「大樹のうへをゆく鴉」が特にさわやかで、輝く緑の上に黒い鳥を配した感覚が新しくもあり、自然の香気を見ている。声調ものびのびとして雑音がなく、安らかでいい。

32「あらたま」かうかうと

かうかうと西吹きあげて海雀あなたふと空に澄みゐて飛ばず

「かうかうと」は「しんしんと」などと同じく、この作者が「発見」して頻用した副詞だが、ここでは最も適切にもちいられている。「西吹きあげて」は、海から陸に向かって吹く西風で、「て」で小休止し、省略がある。「あなたふと」は芭蕉の影響もあるかもしれないが、動かすべからざる主観語として使用されている。しかも「海雀・空に澄みゐて飛ばず」の間に入って、一種迫った、甘滑でない語気を形成している。

類歌:
あかねさす昼の光の尊くておたまじゃくしは生れやまずけり
われ起きてあはれといひぬとどろける疾風のなかに蝉は鳴かざり
日のもとの入り江音なし息づくと見れど音こそなかりけるかも
いちめんにふくらみ円き粟畑を潮ふきあげし疾(はや)かぜとほる
入日には金のまさごの揺られくる小磯の波に足をぬらす
旅を来てかすかに心の澄むものは一樹(いちじゅ)のかげの蒟蒻ぐさのたま

> 前のページへ  > 続きを読む 





tankakanren

-佐太郎の斎藤茂吉解説, 茂吉秀歌

error: Content is protected !!

Copyright© 短歌のこと , 2019 All Rights Reserved Powered by STINGER.