妻不二子のアララギ入会
ところが、突然、赤彦の妻ふじのが、筆名を不二子としてアララギに入会した。
どういうわけでそうなったのかは手元の資料だけではよくわからないが、「彼女は閑古と対等に歌で自己表現する道を選んだ」という。
赤彦の妻不二子の歌
そそり立つ尾の上を深くこむる霧の奥がも知らに迷ひ入るかも
生きて居らむ慰さむすべを求めつつ行くへも知らに遠ゆく我は
いくとせもうつらうつらに思ひつつ斯くて生くこと悲しかるかも
伊藤左千夫に師事したというが、始めたばかりでも立派な歌で、涙ぐましいものがある。
以下の二首に、強く自分の心境を伝えているものがある。
群ぎもの片よる心をみなわれせまれる胸につつみかねつも
この胸をもらさず居らばうつそみの我が生きの身は死にてもゆくらん
一首目、どうしても夫のことばかり思い詰めて胸が迫り、とても自分の胸一つに置いておけない。二首目、この胸の心をもらさないでいれば、この世の人の生きている私は死んでしまうだろう。
「うつそみの」は、歌には広く使われる言葉であるが、赤彦の妻である姉は亡くなっているため真摯に響く。
姉の死後その夫に嫁ぎ、その夫に仕え、子供を産んでこの始末であるから、気の毒という他はない。
しかし、赤彦にしてみれば、あるいは婿として妻に死なれた後のやむを得ない結婚であったのかもしれないと思うと、これも一概には何とも言えない。
深まる心
同じ号には赤彦の静子への歌。
底ふかく心を堪へてさえざえし妹がまなこを神もすべなし
天地の千とせの後にささやけきうつくし心を誰か知るらん
上の赤彦の自分に向けるまなざしを詠んだ静子の歌に応えるもので、自分への底の深い思いをたたえる妹のそのまなざしを神も妨げることはできないだろうの意。
妻の必死の訴えと「神もすべなし」の夫の歌を、他の人はどう見たのだろうか。
辞職と別離
43年、二人の仲は、歌仲間だけではなく、村人にも知れるところとなって、赤彦の住居に来て苦情を言ったらしい。
そして、結局赤彦は、広丘校長の職を辞することとなる。
いささかの心うごきに冬がれの林の村を去らんと思ひし
とあるのは、そういう次第であった。
おそらく村人に直言されてからは、静子とは会えなくなっていたのだろう。
赤彦も静子も共に同じ森の奥に住んでいた。
赤彦は、会うもかなわなくなった森の奥の赤い花を詠む。
斯くのごとかなしき胸を森ふかき青蘚(あをごけ)の上に一人居りつつ
この森の奥どにこもる丹の花のとはにさくらん森のおくどに
そして、同じ村、同じ学校のどこかで二人が偶然に会う機会がある。
眼のまへにその人はありとこしへに消へてゆくべきその人はあり
いち日(にち)の尊きことをつくづくと心に沁みて手をとりにけり
たまさかに人の形にあらはれて二人睦びぬ涙ながるる
もう二度と会えないかもしれないと思っていた人と、思いがけない出会いを喜び、貴重な機会に手を取り合い、涙を流す二人。
また静子の歌。
目の色にすがりて泣かゆこれやこの別れ惜しみて抱かれにけり
相向かう火鉢の灰をかきならし別れ惜しみし二人なりけり
春浅し苔に座りて苔むしり別れ悲しみ去りがてし森
星空の下の別れ
そして二人は最後の夜、人の目を盗んで星の下に別れを惜しむ。
星の下の冷え草の上に別れ惜しむかそけき息の星にしみいる
星の下に別れかなしみこぼるなみだ永久にきえなん火の星の如
静かなる曇りのおきに火の星のほのかに赤く涙ぐまるる
あたたかき心を永久にをるものと思ひたのみて生きて来にけり
二人してやがてかなしき人の世のあたたかき心相触れにけり
「北斗星と北極星」は二人の定めた「思い星」だったらしい。離れてもその星を見て互いを偲ぼうという約束だったものか。
赤彦と静子、桔梗が原に出会って二年目が過ぎていた。
つながり続ける心
赤彦は同じ長野県の別な小学校の校長として移り住み、静子もまた自宅に近い小学校に転勤した。
逢引き
44年7月、赤彦と別れた静子は、別れなければならなかった広丘村とその無情を「常世」として詠う。
青ばがくれうの花沈む水のへにももの思ふ心常世うらめし
生きの世にゐます人だに逢ふすべのなき悲しみを思ひぬるかも
世の中の悲しきことは何もかも常世のなりと思ひなりつも
しかし二人はそれで別れてしまったのではなかった。赤彦は静子を毎週の旅館に誘っては共に過ごした。
赤彦は逢引きした旅館からの眺めを詠い
蛙のはなしもやみぬ二人して遠き蛙に耳かたぶけぬ
向つ家のにかいの窓ゆ暗き気に燈がさしそむるひそか心や
一夜が明けて、静子が歌う。
よべの雲今朝晴ればれと青柿のま遠に見ゆる如月の山
変化の兆し
45年7月からは、赤彦は校長から諏訪郡視学の職となった。
そのためか疲れを詠う歌が多く見られるようになる。そして離れている静子との関係も今までのようではなくなったようだ。
くどくいふ女の前におとなしく煙草の煙をふきて居りけり
すぐ其所に、粟殻の畠、白樺の裂けたる幹、獣の女
破壊(くづ)れたる女ぞと思ひ向へれば今はくよくよ愛(かな)しくてならず
疲れつつ寝入りて居りぬ壊(くづ)れたる心うつくしき寝顔なるかな
酒飲めばほろほろ泣きぬ今は何もあきらめてある我が膝にむきて
静子のくずれというのはわかるが、「今は何もあきらめてある」という赤彦の心情はなぜだろう。
当時の赤彦の生活がうかがえる歌。
この夕べは柱にかけし洋服の皺は寂しく垂りてあるかも
今の我をすこし押したらばそのままに倒れんとする日は暮れ煮つつ
茶を飲みて心静まれ長靴の重みが足につきて居るかな
佳作諏訪湖からの歌もさびしいものとなっている。
ま寂しく生まれたる身は山影に赤き船浮く湖を見にけり
ひそかなるものを遺して遥々に歩めば今は一人なるかな
疲れとそして孤独とが詠われている。
これは推測だが、視学の職は生活するには十分なものだったろうが、それを投げうって東京に出るというのは、妻とも恋人とも心に隔てが出来てしまったことに関連があったのではないだろうか。
赤彦は幼少に母を亡くした人であった。故郷にあって寄る辺ない心境が赤彦を東京に向かわせたような気がする。
アララギのある東京へ
赤彦は大正3年、アララギの運営を引き継ぐために、東京に移り住む。
静子は
たやすくは別れがたしもさはあれど君が行く方は解(と)きがたき道し
と詠む。
もっとも、赤彦はこの時点では静子と別れようと思ったわけではなかったようだが、これまで以上に会い難くなるだろう東京へ行くという決意に、静子の方は理解を示さなかった。
静子と妻それぞれの別れ
東京に去ると聞いて静子の反応は冷たいもののようだった。
凩の闇につき入りて鉄のごとき君の唇を吸はむとするぞ
闇深く入りきはまれり今生に口外をせぬこの心かな
眼のかぎり冷えつくしたる娑婆の道に人ぼろぼろと別れゆくかなし
「鉄のごとき」「冷えつくしたる」に、赤彦の拒絶されたあとの心境がうかがえる。
一方、「国を出る歌」の妻子との別れを詠った「家を出づ」は佳作だが、家を出る赤彦に、妻もまた冷淡だったようだ。おそらく以前からわだかまりがあって当然だろう。
妻もわれも生きの心の疲れ果てて朝けの床にめざめけるかも
古家の土間のにおほひにわが妻の顔を振りかへり出でにけるかも
この一連の最後には、見送りに来た静子との別れの場面と思われる歌もある。
この朝け道のくぼみに光りたる春べの霜を踏みて別れし
灰の上に涙落としていし面わとほどほに来て思ほゆらくに
しかし、赤彦はまっすぐに東京へは行かず、軽井沢に寄って静子と落ち合う。
そこで、静子は赤彦に「死」という言葉をもって激しく問うたらしい。
悲しみをこらへこらへし眼なかに汝れやさながら濡れて光れり
わが腕にいとどすがりて思ひきるとぞ言ひにけるかも
なまじひに我を死なしむと燈の下の眼まともに告(の)りし子ろはや
静子の歌
あざやかに思ひ迷ふよ二筋のいづれの道に捨るつ命ぞ
そこ深き君が眼光(まなこ)に否となくただうつ向きてまかせゐしかな
否云はじ己が唇そと開く夜の闇さへをののくものを
赤彦が東京へ去って、残された静子の詠んだ歌。
名もなき草よしのびやかなるその芽こそ人目に秘めしわが命なれ
たまさかの逢い
大正4年2月「切火」刊行の後、諏訪の旅館で密会。
そのあとの静子の歌。
ことごとに満ちたりしかなあの一夜すこやかなれと又泣き沈む
別れ来てむなしき今の愁れ心立ち止りてはまた恍(ほ)けてをり
大正5年11月浅間温泉に静子を連れてゆく。
久々にほろ酔い給ふ赤き顔あななごやかにふるるみ心
太陽(ひ)は高くなほ起きやらず温泉(ゆ)の宿の朝餉をはれば十二時なりし
「なごやか」ではあったのだろうが、「ほろ酔い給ふ」との敬語には距離感もうかがえる。
静子への呼びかけ
赤彦の静子への歌はなおも続く。
何ゆゑにたより絶えしか分からねば夜(よ)をつくし思ふ我は坐るも
お茶の水橋渡りていゆく現し身の我の心を知る人もなし
はふ蔦のわかれと思(も)はねば傘さして雨夜の坂を下りたりける
おそらくは、便りの絶えてしまった静子に語りかけた歌だろう。
下は万葉調の歌。
「毛野の山」
ひむがしの道のはてなる毛野(けぬ)の山草さへ萌へてまた逢はめやも
沈む日をとどめし得ねば惜しみつつ山を下りぬまた逢はめやも
上つ毛の春草山に塩の湯の永久にし湧くを我は歎くも
岩が根のこごしき山に入り来たり山に向ひて歎きつるかも
我妹子(わぎもこ)がこもらふ里を近みかも春草のびず山に雪あり
「春の山」
小林(をばやし)の木ぬれをくぐる春鳥も敏(はや)きおこなひも愛(めづ)らし我妹(わぎも)
「山道」
霧の中かすかに鳥は聞ゆれど我は心のうちに歎くも
おそらくは、これらの歌に静子はもう答えることをしなかったのであろう。
赤彦は翌大正6年に、郷里から妻子を呼び寄せて同居した。
静子は大正12年に結婚したとある。
まとめ
赤彦と静子の恋愛を追ってみた。静子との出会いの後の、赴任先の変化、そして辞職と東京移住等は、明らかに関連があるものと、間接的にだが関連が推測されるものとがあるだろう。
さらに、恋愛が赤彦の作品にも潤いや柔らかさを与えたことも見逃せないところだと思う。恋愛と同時に婚家の束縛を離れたところにこれらの歌はあり、それがひいては、アララギの運営に上京するという決断を引き出したことになったともいえる。
作品以上に、赤彦が居なければ初期アララギの発展はなかった。恋愛とはいえ赤彦がただ享楽的であったということではない。赤彦が最も懸命に力を注いだのは、何よりもその作品であって、その努力の姿勢は終生変わることがなかった。