茂吉秀歌

「白き山」「つきかげ」斎藤茂吉の短歌の鑑賞と解説5「茂吉秀歌」

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斎藤茂吉の短歌に一首ずつ、佐藤佐太郎が表現技法を解説、鑑賞のポイントを書き加えたものをまとめました。

このページには、斎藤茂吉の歌集「白き山」「つきかげ」の秀歌とその解説を掲載しています。

鑑賞の際に参考になさってください。

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佐藤佐太郎の『茂吉秀歌』

佐藤佐太郎の『茂吉秀歌』から、歌集「白き山」「つきかげ」の斎藤茂吉の秀歌の解説のです。

各短歌のポイントのみをまとめてあります。

目次

171「白き山」しづけさは

しづけさは斯くのごときか冬の夜のわれをめぐれる空気の音す

金瓶で「この村にのがれ来し年の冬至の夜こほらむとしてしばし音絶ゆ」といったが、冬の夜の凍る静かさをここでは「空気の音す」といっている。どちらも真実を言い当てた表現だが、この歌で「空気の音す」といって、たとえば、一声鳴いて山更に幽なり、というように、「静けさ」を強調したのではない。

この歌で「冬の夜」でも「空気の音」でも大切な要素だが、吾をめぐってあるという、「冬の夜のわれをめぐれる空気の音」と、確かに対象を捉えた言葉が深切である。こういって、感じさせるのは、直接にはいっていない、厳しい寒気である。これが歌の味わいである。

 

172「白き山」おしなべて

おしなべて境も見えず雪つもる墓地の一隅をわが通り居り

いちようにどこが境ということもなく雪に覆われた、墓地の一角を自分は通っている。雪に覆われて来る人もなく、どこが誰の墓という区別もなく、ただしずまっている。

これが歌としての一つの境地だが、この歌ではさらに「一隅をわが通り居り」といっているのが、また一つの境地である。(中略)

「墓地の一隅をわが通り居り」という下句には、重量がある。上句だけでは想像もされない下句が参加して、影が添うことになるのが歌の味わいであり、五句三十一音として完了するのが歌の表現だが、それには特別の工夫というものはいらない。ただ上句も下句も自分の経験を直接にいうことによってそれが可能になる。

 

173「白き山」幻の

幻のごとくに病みてありふればここの夜空を雁(かり)がかへりゆく

力強く着実に言葉を運んで、しかも言葉をのべていったのは歌人の風格だが、結句を八音にして「雁がかへりゆく」といったのはたいした力量である。

たとえば「かりかへりゆく」と七音にしていうのが常道だが、わざわざ字余りにしていったのは、甘滑になるのを避けたのだろう。

 

174「白き山」水すまし

水すまし流にむかひさかのぼる汝がいきほひよ微かなれども

この四五句が味わい無尽で、四句だけでも五句だけでも出せない感じをこの下句は持っている。

 

175「白き山」ひがしより

ひがしよりながれて大き最上川見おろしをれば時は逝くはや

逝くものが、水でなく、「時」であるのが平凡に似て平凡でない。こういって、展望の実際をいい、寂しさもいい当てている。また「見おろしをれば」から「時は逝くはや」とつづく言い方がいい。悠々としてしかも充満している語気である。

 

176「白き山」真紅なる

真紅(まあか)なるしやうじやう蜻蛉いづるまで夏は深みぬ病みゐたりしに

三月から初夏のころまで病臥していたが、いつのまにか晩夏になってショウジョウトンボが出るようになった、というのである。名を知るのはそれだけ正確にものを知ることになる。しかもこの場合のように、歌に不思議な厚みが加わることもある。

四句まで一応意味も完了しているが、さらに念を押すように、「病みゐたりしに」と結句つけたのがいい。このように機微に徹して、人生を畳みこむような言葉の響きは無類である。

 

177「白き山」やうやくに

やうやくにくもりはひくく山中に小鳥さへづりわれは眠りぬ

「やうやくにくもりはひくく」という一二句は、時間の経過を含んだ天候の変化で。表現された言葉は心の落ち着きを感じさせる。一二句の五・七音と、三四句の五・七音とが、対句のようなこころよさをもち、また四句と五句とに一つの対照がある。

そういう関係か、秋の山中を領している静かな平和が一首の形態から感じられる。その中に身を置いて、少時の睡眠を楽しんだ作者の満足感をありありと伝えている。

 

178「白き山」あたらしき

あたらしき時代に老いて生きむとす山に落ちたる栗の如くに

時代が変わって古いものの価値がなくなり、老いたものは置き去りにされるという感想は、良いとも悪いとも言っていないが、悲しい。

一首の内容はそれだけでいいが、抽象的な骨組だけでは一首にならないから、具象的な下句をそえて味わいのある歌になったが、味わいは言葉のひびきにある。

 

179「白き山」さびしくも

さびしくも雪ふるまへの山に鳴く蛙に差すや入日のひかり

「さびしくも」は「鳴く蛙」にかかる。おいおい雪もふろうかという晩秋の山に、ときどき蛙の声がする。西日の光はその蛙にも照っているだろう。「射すや」の「や」は疑問、こういって声だけ聞こえていることを感じさせる。

蛙は間もなく冬眠に入るのだが、日が射すと鳴いたりするのが、いかにももの寂しい。田などに鳴く蛙とちがって山に鳴く秋の蛙であるのが、いまだ人の見ない対象である。


ここにして心しづかになりにけり松山の中に蛙が鳴きて
しづかなる亡ぶるものの心にてひぐらし一つ短く鳴けり

 

180「白き山」かりがねも

かりがねも既にわたらずあまの原かぎりも知らに雪ふりみだる

「あまの原かぎりも知らに雪ふりみだる」」は大きくて単純で強い。ただ雪だけをいうから、上句で「かりがねも既にわたらず」と具体を添えたが、細部にとらわれずに大きくいったのが良い。この大きな句に寄って下句との調和がとれている。

また、静物のひそんだことをいうのに、雀などの小禽でなく「雁」を持ってきたのが大歌人の力量で、「かりがね(雁)」の「わたる」のは九月から十月頃だが、歳晩の歌にこだわりなく渡る雁をいって、鳥の中の鳥として雁をいっている。そして自然の歴史としての時を歌に含ませているのである。そのために言葉に遠韻がながれている

 

181「白き山」最上川

最上川逆白波の立つまでにふぶくゆふべとなりにけるかも

「逆白波」という造語がいいが、一首の味わいは、この語によって簡潔のうちに豊富になっている。表現は力を注ぐことによって争われない新鮮さが付着する。

 

182「白き山」やまひより

やまひより癒えたる吾はこころ楽し昼ふけにして紺の最上川

「やまひより癒えたる」という言い方は、体から直に出た端的な言葉であり、「こころ楽し」も晴れ晴れとした風光を暗示している。このように状景の楽しさをいうために、自身のことをまずいうのが、作者の抒情詩の表現方法である。

「昼ふけにして紺の最上川」に至っては、重厚でさわやかで、胸の開く表現である。実質が充満していながら、遊んでいるような言葉である。「コン」というような跳ねる音を平然として融和せしめた力量も偉大である。

状景そのものにある、晴れた日の明るく濃厚な感じを、このように自信と自然とを不可分に流露せしめて、密度と容積とのある下句を据えたのは実に完備した表現である。

 

183「白き山」うつせみの

うつせみの吾が居たりけり雪つもるあがたのまほら冬のはての日

一首は二句で切れ、四句で切れ、しかも四句も五句も名詞で終わっている。単純化の極限ともいうべき形態は崇高である。しかも一首のひびきが長く、蒼古として切実でさえある。

蒼古[ト・タル][文][形動タリ]古めかしい中に深い趣のあるさま。

 

184「白き山」ふかぶかと

ふかぶかと雪とざしたるこの町に思ひ出ししごと「永霊」かへる

大石田は深い雪にとざされ、そこに戦死者の遺骨が帰ってくる。終戦後一年たって稀になったから「思ひ出ししごと」と言ったが、町の人はそれを戦時中の礼にならって迎えたのであろう。「思ひ出ししごと」は、雪中の生活のひそけさ、死者も生者も込めた寂しさを感じさせるが、その底をいい当てたような一首である。

 

185「白き山」オリーヴの

オリーヴのあぶらの如き悲しみを彼の使徒も常に持ちてゐたりや

オリーブの油のような、とろりとした悲哀を使徒たち(あるいはペテロ)は、いつも持っていただろう。そう受け取って、敗戦の悲哀にひたっている作者に、ときにそういう悔恨のれんそうのうどくこともあった、 ということを補充して味わうのがよい。

186「白き山」けふ一日

けふ一日雪のはれたるしづかさに小さくなりて日が山に入る

連日の雪の晴れた一日があって、深閑と静かな空を渡る太陽がいま小さく山に入ろうとしている。「雪のはれたるしづかさ」、は現象の奥を見据えたような言葉で、最も大切なものを一言でいい当てている。

日が照っているから、身近には雪解けのしずくの滴る音もしていただろう。それにもかかわらず、「しづかさ」を現象の本質としてとらえたのは見るべきものを見たのである。

それから、「しづかさに」という」因」があって、「小さくなりて」という「果」があるようにいったが、因果関係をつける言い方によって、自然の厚みというものが状景に出ている。

山の多い山形県内陸部であるから、夕日が「小さく」見えるのはあやしむに足りないが、それにもかかわらず、別の必然性があるような言い方をしている。そして「しづかさ」という言葉に声調な空気などすべてをこめて、入り日が小さいといっている。

荘厳な天地自然の法則を覗き見る思いがする一首である。

 

187「白き山」夜をこめて

夜をこめて未だも暗き雪のうへ風すぐるおとひとたび聞こゆ

「夜をこめて」は、夜明け前の早暁。そのまだ暗いときに、低く吹きすぎる風の音がする。夜と朝の境目に風の吹くのは、海でも山でも野でも経験するが、前後に連絡もなく吹きすぎる風音を「ひとたび聞こゆ」といったのが良い。

風音がしたと思うと、またもとのしずけさにもどる寂しい時間をこの結句はいっている。

 

189「白き山」春彼岸に

春彼岸に吾はもちひをあぶりけり餅は見てゐるうちにふくるる

どことなく春の気配が動いてきた頃、火鉢で餅を焼いていると、餅はたちまちに焼けてふくれるというのである。彼岸についた餅は、どういうわけですぐ焼けるのか、そういうことをこまごまといわないで、ただ事実だけを言っている。

こういう瑣事にある、たやすく安易で豊かな感じを「春」として受け取っている。端的に必要なことだけをいったのが、流れる水のようにこころよい。

 

190「つきかげ」界隈に

界隈にをん鳥をればあかつきの声あげむとしてその身はばたく

「あかつきの声あげむとして」という表現には朝の光を待つ人の同感がこもっている。そして、この歌は鶏鳴に善行する羽ばたきを聞いているので、その同感が何か切実にひびいてくる。

鳥は習性に従って平凡に羽ばたきをするのだが、そのありふれた事実の中にある深刻さを、身をもって真似ているような一首である。

 

191「つきかげ」二階にて

二階にてきけば野球の放送す老懶(ろうらい)の耳飽くや飽くやと

野球の実況放送をしているラジオの音が二階に聞こえて来て、甲高い早口の声が病む暇もなく続くのがうるさくてかなわないというのだが、「二階にてきけば野球の放送す」は複雑な事情を単純にいいきって、実に達した表現だと思う。下句もまたじざいで、確実な中に一種の風格がある。

「堪へがたき」とか「煩はし」とか「もの憂くて」とかいう状態は老境の一つであるから「つきかげ」のうたにもしばしば出てくるが、それはすべて自身のことについていっているので、他人の場合にそういっては歌柄が小さくなる。そういう用意もこの結句にはあるだろう。

 

192「つきかげ」あふむけに

あふむけに臥しつつをりてわが母の中陰の日に涙ぐみたり

養母のための晩歌。「中陰」すなわち亡母の七七日に当たって、臥床していて涙ぐんだという簡単な内容だが、声調に静かな揺らぎがあって、しみじみとして悲しい歌である。

「あふむけに臥しつつをりて」と、状態だけを投げだすように言った率直さの中に追慕の情もおのずからこもっている。下句で「中陰の日」と延べた調子も安定している。

 

193「つきかげ」ここに来て

ここに来て狐を見るは楽しかり狐の香こそ日本古代の香

動物園にでも行って狐を見ている歌で、声調が長く揺らいでいるというよりは、実った果物のように堅くしまっている。「楽しかり」という中には狐の形態も毛色もふくまれているだろう。

私たちは狐の体臭を今まで「日本古代の香」として感じはしなかったが、そういわれればその感覚の胴関して、革新をとらえた直観の鋭さ新しさにいまさらのように驚くのである。

 

194「つきかげ」わが気息

わが気息(いぶき)かすかなれどもあかつきに向ふ薄明にひたりゐたりき

「薄明にひたる」は、薄明の中に臥床していること、呼吸していることであるが、そのように分解せずに文字通り「ひたる」として受け取って味わうべきことがである。

一首は安らかに息の永い声調として完成している。自身の状態だけを言ったこの一首から、限りない平安と感謝の感情を受け取ることができる。人の心境のしずかさをこれほど深くあらわした作は少ないだろう。

 

195「つきかげ」五年ぶり

五年ぶりここに来りてほうほうと騰(のぼ)るさ霧を呑まむとぞする

「ほうほう」は、煙や霧などが盛んに立ちのぼるさまをいう副詞。沸くような、むせるような霧だから「呑まむ」といったし、思いきって開放的な「ほうほうと騰(のぼ)るさ霧」に対して「呑まむ」といって初めて調和するのである。

以前は毎年夏ここで生を養い、親しんだ箱根、そのあらあらしくすがしい空気に再会したひとの気息が、じかに伝わるような歌である。

また、「五年ぶり」という時を隔てて、ここの自然の香気にふれた人の人間的成長のあとが声として出ている。そして歌調堂々としている。

 

196「つきかげ」この部屋に

この部屋にいまだ残暑のにほひしてつづく午睡(ごすい)の夢見たりけり

「残暑のにほひ」は、畳のにおい汗のにおいなどをふくめて、部屋のなかにこもっている暑さを端的にいったのだが、恐ろしいような感覚の鋭さ、深さである。「つづく午睡のゆめ」はこれで一塊の言葉で、「見たりけり」という詠嘆は、目覚めたときの感情を暗示している。

残暑のにおいのする部屋に午睡して、長い夢を見ていたのだった、というのは、そのまま残暑のにおいのする部屋に目ざめたときの寂しさを表す言葉である。人の生活の中にある底知れないような寂しい瞬間を、手ですくい上げるようにして示した一首である。

 

197「つきかげ」ひと老いて

ひと老いて何のいのりぞ鰻すらあぶら濃過(こす)ぐと言はむとぞする

作者の鰻好きは有名で、それほど好きだった「鰻」すら、子の頃は脂肪が濃厚すぎる感じでほしくなくなった、という歌。上句がやや難解で、「いのり」は神仏に祈願することだから、宗教に関するところがあるようにも取れる。

しかし、字書に「祈、求也」とあって、その原義にしたがって解すれば、年老いて何の欲求もなくなった、と素直に受け取れるのである。

(中略)また自身の感慨をいうのに「ひと老いて」といっているが、これも老境になった人でなければいえない言葉だろう。

 

198「つきかげ」たかむらの

たかむらの中ににほへる一木(ひとき)あり柿なるやといへば「応」とこそいへ

篁(たかむら)の中に赤い木があるのを、「あれは柿ですか」と、そのあたりの畠の日とか庭の人に聞くと、「おう、柿よ」と答えた。「応」は答えることだが、字音そのままのことばがおもしろく、昔の人のような簡明率直な応答だと思って一首にしたのだろう。むずかしいところのない、会話を写しただけの歌だが、まことに自在で大柄な歌である。(中略)

「にほへる」は色が映えることだが、それは鈴なりの柿の木であり。「たかむらの中」にあるのがひとつの美しさである。「たかむらの中ににほへる一木あり」という上句は、自然も美しいが、簡明な言い方が快い。

例えば、竹藪からのぞいている梅を詠んだ蘇東坡の詩のような味わいがある。

 

199「つきかげ」わが生は

わが生はかくのごとけむおのがため納豆買ひて帰るゆふぐれ

六十八歳の老翁が、自身のために自身の食う納豆を買って夕暮れの街を帰って来る、こんな形が自分の生活だというのである。「おのがため納豆買ひて」といった、この三四句あたりから、寂しい自我像が顕っている。

何故寂しいのか、とにかく瑣末な行為が、人の姿の寂しさとおかしさと、生きた姿を感じさせる。

良寛の歌に「山ずみのあはれを誰にかたらまし藜籠(あかざこ)に入れかへる夕ぐれ」というのがある。作者はこの歌を記憶していたのかもしれない。あるいはこれが天衣無縫の一つの現れといってもよいだろうか。

 

200「つきかげ」目のまへの

目のまへの売犬の小さきものどもよ生長ののちは賢くなれよ

街の行きずりに立ちどまって、犬猫店などに売られている、あるはデパートの売り場のようなところで、仔犬を見ている歌。「小さきものどもよ」とよびかけるように、「生長ののちは賢くなれよ」とさとすように表現している。

べつにむずかしいところのない、現れたままの歌だが、その自然な言い方の中に心のあたたかさがにじんでいる。ほとんど聖者の声を聞く思いがする。

 

201「つきかげ」黄蝶ひとつ

黄蝶ひとつ山の空ひくく翻る長き年月かへりみざりしに

春の黄蝶はやや通俗だが、青空を背景とした八月の黄蝶は美しい。「長き年月かへりみざりしに」というように、晩年にあらためてその美しさを発見したのであったろう。年老いて、世に訣別する人の目が発見した美であり、真実である。

それから、一首の歌の響きが壮年の頃とはちがって、強烈にひびくというよりは静かに胸に沁みこむような歌調である。短歌において「ひびき」は、言葉のみでなく、一首の思想や形態からも感じられる。

 

202「つきかげ」老いづきて

老いづきてわが居る時に蝉のこゑわれの身ぬちを透りて行きぬ

聞こえる「蝉のこゑ」は、さながら自分の肉体に沁み、肉体を徹りぬけて行くようだというのである。こういう経験は若い人にはあるまいし、年をとった人でも経験しない人は経験しないだろう。

しかし、経験した人、その経験に無関心でない人にとっては驚くべき事実だろう。

 

203「つきかげ」この山に

この山にとらつぐみといふ夜鳥啼くを聞きつつをればわれはねむりぬ

「とらつぐみといふ夜鳥」といえば、そこに平凡でない異常な感じがある。「聞きつつをれば」から「われはねむりぬ」と、何の奇もなく移行する語気が、いかにも安らかにひびく。安らかであるけれども寂しい歌である。

 

204「つきかげ」茫々と

茫々としたるこころの中にゐてゆくへも知らぬ遠のこがらし

上句の「茫々」は意味がありながら。単なる副詞のように響くし、「こころの中にゐて」も「心境」といい換えてもいい心の状態をいって、ことさらめいたところがない。結句の「遠のこがらし」は名詞であるから、「聞こえる」という語を省略して完結している。そのように単純でまどかで小瑕(か)さえない一首である。

「こころの中に」「ゐて」(傍点)とか「遠『の』(傍点)こがらし」とか味わい無限だが、どこからどこへ吹くとも知らない風の音を聞くという、現実とも無限ともつかない寂しさをいい当てている。荘厳な歌人の晩年である。

(完)





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