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「遠雲にはつかにのこる赤光」「谷まより空にそびえし」〜斎藤茂吉「白桃」より

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斎藤茂吉の歌集「白桃」より、印象に残った短歌二首について書き留めておきます。

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谷まより空にそびえし高山のあふげば見ゆる峯の青草

斎藤茂吉「白桃」

近年しばらく、短歌にだいじなのは意味や内容ではないのだということに気が付いて、それをずっと探し続けている。

歌の評や、感想は、ほとんどが意味内容に焦点を当てたものが多い。「良い歌だ」という時の「良い」は、まずは内容ということになっている。内容が良いので、すなわちそれが良いという感興を人に起こさせるものだということになっているということだ。
でもはたして、それだけでいいのだろうか。「夕されば大根の葉に降る時雨いたくさびしくふりにけるかも」は今でもそらでいえる数少ない歌なのだが、どこかで茂吉本人も言っていたが、いっている中身はただ、大根の葉に夕方の時雨が降っているということだけだ。
対して、上の歌は、言ってみれば、山の上に草が生えている、というのが意味内容であって、それ以上ではない。
よく見ると、「そびえし」は「あふげば」で補強されているのがわかる。しかし、「高山の」で、流れはいったん切れることになる。
「高山の」は「高山の峯の青草」とつながるので、「高山に(ある峯の青草)」ではない。「あふげば見ゆる」は挿句。そして「あふげば見ゆる」の主語は作者で、「あふげば」はその所作である。
よく考えてみると「そびえし」は、これも実際作者の記述なのだが、それは作者と関連のない、元々の山の属性のように見える。作者の所作「あふげば」が、それを実際にも補完する。それら動詞が一貫して表しているのは、山の高さである。
そうして最後に「峯の青草」が、一首の中の最後に、距離感を持って見えてくる。歌の中の語の距離が同時に谷と山の距離なのである。
これがたとえば「谷まより空にそびえし高山の峯の青草あふげば見えぬ」であったとしたら、散文なら、伝えたい意味内容は同じになるが、短歌としては別物になる。歌の中の順序が変わって本来の時間性が失われたからである。
視線を動かした先に最後に見えるのが峯の青草にならなければならない。それがすなわち山の高さの感覚を伝える。
音楽だったら、最後に鳴るべき和音が先に来て、フレーズの盛り上がりが後になったら、その曲は意味を失ってしまう。それと同じようなことが短歌にはある。
こういう部分を何と呼ぶのだろう。これも「調べ」ということで良いのだろうか。少し違うような気もする。
もう一つだいじなことは、「たに」「たかやま」、「そら」「そびえし」、「みね」「みゆる」、「あふげば」「あおくさ」という、韻にもある。
そう、少しずつ遅れて同じものを歌う輪唱という合唱があった。バロック音楽ならストレッタという技法になるのだが、「たに」に続いて「たかやま」、「そら」に「そびえし」と、少しずつ遅れて重なりながら広がっていく。メロディーが先へ先へ進むのと同時に、言ってみれば、平行に、ではなく、垂直な広がりを見せるものだ。
聴いている人が注意を向けるのは、単にメロディーの時間的な推移ばかりではなく、それと同時に展開される音の広がりということになる。
この歌のもたらす環境は音楽の時間性にとても良く似ている。動的な山の高さと同時に、裾の広さが加味されていると錯覚する。
歌の言葉の繰り出しと共に、ずんずんと目の前に積みあがっていくような山の高さ。それはもはや単なる意味内容の域ではない。その歌のありようそれこそが、歌の内容ということになるだろう。

 

遠雲にはつかにのこる赤光(あかひかり)いつ消えむとも我は思はず

佐藤佐太郎の解説。

遠くの雲がまだ赤く見えて光っているところ。「いつ消えむとも我は思はず」といって、その雲の色調を暗示している。夕映えは刻々に変わるのだがそんなことを感じさせない永遠のような光を暗示しているだろう。こういう表現は凡手の及ぶところではない「思はず」という否定的な言い方がいい。

『赤光』はその通り「あかひかり」と読ませている。これは「暁紅」のなかの一首であるが、「暁紅」も思ってみればやはり、赤い光のことなのだろう。
上の句『赤光』がどのような光であるかは、それ以上言っていない。下の句の「消えると思わない」から、それがどのような様子であるか、あるいは作者がそれをどのように受け取っているかが示されているということになる。
夕暮れの光は消えるものなのだが、しかし消えようもないような光だった、ということなのだが、要所だけを言って意味が取れる、それが「省略」ということなのだと思う。

 




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