ともしび

目をあきてわがかたはらに臥したまふ窿応和尚のにほひかなしも/斎藤茂吉『ともしび』短歌代表作品

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斎藤茂吉『ともしび』から主要な代表作の短歌の解説と観賞です。
このページは現代語訳付きの方です。語の注解と「茂吉秀歌」から佐藤佐太郎の解釈も併記します。

他にも佐藤佐太郎の「茂吉三十鑑賞」に佐太郎の抽出した『ともしび』の歌の詳しい解説と鑑賞がありますので、併せてご覧ください。

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目をあきてわがかたはらに臥したまふ窿応和尚のにほひかなしも

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目をあきてわがかたはらに臥したまふ窿応和尚のにほひかなしも

歌の意味と現代語訳
目を開いたまま私の隣に横になっている窿応和尚の匂いがかなしい

出典
「ともしび」大正14年

歌の語句
かたはら…傍 かたわら
臥す…寝ている 横になっている 眠っているのではないことを示すために「目をあきて」がある
臥したまふ…「たまふ」は尊敬語
かなし+も…かなし は「悲し」でもあるが、和尚への「愛し」の気持ちをも表すと思われる

表現技法
句切れなし

 

鑑賞と解釈

目をあいたまま臥す、つまり、眠っているのではないが、体が不自由なために横になっているしかない和尚の痛ましい様子を伝わるように、正確に詠んでいる。

眠っているのではないことを表すためにの「目をあきて」、また、臭いがするといった克明な提示の仕方が酷にならないのには、「かたはらに」という二人の物理的な距離と、心の親しさが示されていること、さらに、そのような状態でも、「たまふ」という尊敬語が含まれているためだろう。

そして、結句の「かなしも」については、単に悲惨な状態を悲しむのではなくて、和尚への「愛(かな)し」の気持ちを如実に表している。この「かなし」の気持ちが、一首の全てを成り立たせているといえる。

斎藤茂吉の自註

晩春私は近江番場蓮華寺に窿応和尚を見舞うた。大正10年春、長崎から帰郷の途に寄ったときには、まだ丈夫でおられたのが、今度は中風で伏して居られた。

和尚のことをおもい、私の少年の時のことをおもい、いろいろと連想が活発になってくるとつい涙が目にわくのであった。

和尚のそば近くに侍していると、和尚は目を開いておられる。けれども、体の半身が利かないところである。

佐藤佐太郎の評

窿応和尚のいたいたしい常臥の状態をいっている。体を動かすことがないけれども目ざめている。それで「目をあきてわがかたはらに臥したまふ」といった。

ずっと常臥のままだから病者の体臭がある。それで「にほひかなしも」といった。言葉が確かでおのずから哀韻がある。

「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

一連の歌

近江蓮華寺行かぎろひの春山ごえの道のべに赤がへるひとつかくろひにけれ
右中山道みちひだりながはま越前みちとふ石じるしあはれ
このみ寺に仲時の軍やぶれ来て腹きりたりと聞けばかなしも
山なかのみ寺しづかにゆふぐれては病みこやりたる
さ夜ふけていまだねなくになかを啼きゆく木兎のこゑを聞きたり
ひかりさす松山のべを越えしかば苔よりいづるみづを飲むなり
やまなかの泉にひかりし居りてわきづるみづは清しといはむ
あかつきも木菟なけり寺なかに窿応上人やみてこやせる
茂吉には何かうまきもの食わしめと言ひたまふ窿応和尚のこゑぞきこゆる
さ夜なかにめざむるときに物音(と)たえわれに涙のいづることあり
目をあきてわがかたはらに臥したまふ和尚のにほひかなしも
となりまにかすかなるものきこゆなり夜半につまぐる数珠はきこえぬ

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