小園

斎藤茂吉の秋の短歌『小園』より終戦後の悲哀を詠った作品

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斎藤茂吉の秋の短歌、終戦の年の秋に詠まれた短歌は、『小園』より「秋晴れの光となりて楽しくも実りに入らむ栗も胡桃も」を先の記事でご紹介しました。

その前後の秋の歌も、静かで胸を打つものが多く、こちらに続けてご紹介しておきます。

秋の題材としてどのようなものがあるかも参考にされてください。

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斎藤茂吉の秋の短歌『小園』より

『小園』は斎藤茂吉の第15歌集、昭和18年から昭和21年にわかる4 年間の作品が収録されています。

作者は、その折単身山形に疎開。その時茂吉は61歳、今の60歳とは違って、相当老いを意識する年齢でもあり、ひとり孤独に終戦を迎えます。

戦争を鼓舞する歌、戦争詠を作ったということで批判もあったらしく、苦しい寂しい心境であり、滞在する家も一度移っており、いわば流浪の身ともいえるかもしれません。

もっとも、茂吉は「赤光」においても、「少年の流されびと」との言葉を入れた歌もあり、これが初めての境地ではないとはいえ、それだけにいっそう痛ましいものがあります。

この次の歌集の『白き山』は茂吉の最高峰と言われる歌集で、そこに結実するまでの過程とみる向きもありますが、この頃の茂吉の歌に流れる悲しみの色調と、そこからの再生は、やはりこの時期の歌においてこそ詠まれたものだろうと思います。

短歌の作品というものは、すべて一回性であり、優れた歌は、必ずしも歌集単位でなく鑑賞したいものです。

今回は昭和20年の秋の歌のみを、こちらに掲載します。

 

秋たちてうすくれなゐの穂のいでし薄(すすき)のかげに悲しむわれは

この前の歌が、「停戦ののち五日この村の畑のほとりにわれは休らふ」があります。
すなわち、終戦を悲しむ歌です。

こがらしは吹くべくなりてこの村の楢の木原に青き繭さがる

ヤママユガは、天蚕(てんさん)とも言われ、幼虫はクヌギやナラ、カシなどブナ科の葉を食べて緑色の繭を作ります。

幼少の茂吉にも見慣れた光景でしょう。

「吹くべくなりて」というので、今はまだ吹いていないこと、すなわち秋が深まったことがわかり、そうしてその季節だから、さらに、身を守るような「青き繭」と作者の観察が続いていくのです。

稲を刈る鎌音きけばさやけくも聞こゆるものか朝まだきより

稲を刈る音がすががすがしい、といって、そのあとに、朝早くから」と付け加えており、朝の澄んだ空気の中の鎌音であることがわかります。

景色を、ただ、静かであるというのではなくて、「すべてのものよ、しずかであれよ、というように」と作者の主観がついています。

作者自身の、日の光を受けていると、天の声からそう言われているように、悲しみが静まっていくのです。

秀歌のひとつ。

 

この国の空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね

こちらも秀歌のひとつ。

造語のようであり「雨夜かりがね」の結句がなんとも良い調子を醸し出しています。

雨の夜に通り過ぎていく雁に、空を飛んでこの地を離れられない人である作者が、戦いに敗れた国にある寂しい気持ちを呼びかけているのです。

石の上に羽を平(ひら)めてとまりたる茜蜻蛉(あきつ)も物もふらむか

いつしかに黄ににほひたる羊歯の葉に酢川の水のしぶきはかかる

星空の中より降らむみちのくの時雨のあめは寂しきろかも

「平(ひら)めて」は平らにして、の意味。のんきそうな蜻蛉に見える描写を拾います。

「いつしかに」で時間の経過を、さらに「星空の中より降らむ」で雨の降る空間を拡大します。

 

すがしくも胸門(むなと)ひらけばこの縣(あがた)の稲の稔りを見て立つわれは

くさぐさの実こそこぼるれ岡のへの秋の日ざしはしづかになりて

こぼるれは已然形止めでしょうか。草の実のほろほろとこぼれる様子を音で表します。

 

沈黙の我に見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ
あららぎのくれなゐの実の結ぶとき浄(さや)けき秋のこころにぞ入る

「沈黙の」は、この時期の歌として有名な一首。

この歌について詳しく
沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ 斎藤茂吉『小園』

 

秋晴れのひかりとなりて楽しくも実りに入らむ栗も胡桃も

この歌は、一首解説に取り上げています。
秋晴れの光となりて楽しくも実りに入らむ栗も胡桃も/斎藤茂吉『小園』

 

秋風の遠(とほ)のひびきの聞こゆべき夜ごろとなれど早く寝(いね)にき

いばらの実赤くならむとすることを金瓶村にいまだ起き伏す

「起き伏す」は、寝起きする、ここで生活するということでしょう。上句が時の流れを感じさせます。

 

空ひくく疾風(はやち)ふきすぎしあかときに寂しくもわが心ひらくる

秀歌の一つ。連体止め。

よの常のことといふともつゆじもに濡れて深々し柿の落葉は

いつでもどこでも同じものなのですが、深く積もって「露霜に濡れる」落葉からも感じ取れるものがあるのです。

わが心しづかになれど家隅(いへくま)の茗荷黄いろにうらがれわたる

自分自身の心の様子と、茗荷が並置するものだというところが、興味深いです。

よく「自分に引き付けて歌う」と言われますが、こういうことでしょう。

「枯れる」ではなく「うら枯れる」。そして、「うらがれわたる」と複合動詞で、五句をまるまる使うことで、一面に黄色になることがわかります。

 

一日(ひとひ)すぎ二日(ふたひ)すぎつつ居りたるにいつの頃よりか山鳩啼かぬ
うつせみのわが息息(そくそく)を見むものは窓にのぼれる蟷螂ひとつ
のがれ来てわが恋ほしみし蓁栗(はしばみ)も木通(あけび)もふゆの山にをはりぬ

秋の深まりが山鳩の声からも測れるのです。
同時に野山が荒涼と冷え沈んでいく様子もわかります。

孤独に蟷螂と対峙する作者ですが、この蟷螂も、秋になって茶色になっているのでしょうか。

そして、この後は山は冬に入り、詠まれるものは雪が主流になっていくのです。





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