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秋づきて心しづけし町なかの家に氷を挽きをる見れば 「ともしび」斎藤茂吉

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秋づきて心しづけし町なかの家に氷を挽きをる見れば

斎藤茂吉『ともしび』から主要な代表作の短歌の解説と観賞です。

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秋づきて心しづけし町なかの家に氷を挽きをる見れば

読み:あきづきて こころしづけし まちなかの いえにこおりを ひきおるみれば

歌の意味と現代語訳

季節が秋めいてきて心が静かで落ち着いている。街中のある家で氷を引いている、その風景を見れば

歌集 出典

斎藤茂吉『ともしび』 大正15年

歌の語句

・秋づく・・・「秋づく」は動詞で「秋らしくなる」の意味。

万葉集に「庭草に村雨降りてこほろぎの鳴く声聞けば秋づきにけり」の歌がある

・しづけし・・・「静かだ。落ち着いている」の意味

・氷を挽く・・・塊のままの氷を鋸で挽くという昔の方法

・みれば・・・順接確定条件の「ば」。「…ので」の意味。

修辞・表現技法

2句切れ

倒置

 

鑑賞と解釈

大正15年作。

その前に「秋に入りし歩道あゆみて我は見たり四角の氷を並めて挽けるを」があるが、報告的なのでこの歌の方が良い。

こころの焦点化

比較すると、歩道を歩いているときに、どこかの家の前で氷を挽いていたのを目撃した歌なのだが、実際に見た情景の描写だけでなく、それに基づいて起こった心の静かさが上句の最初に置かれている。

この歌では、氷を挽いているのはいわばバックにある風景であり、焦点化されているのは心の報である。

氷と季節

また、氷は秋だけに挽かれるものではないと思うが、氷のすがすがしさを「秋づきて」と秋のさわやかな季節に入ったことと重ねて、季節として提示している。

氷があっても、夏ではなく、氷自体が「夏の名残」として扱われている。

氷の風物詩

氷を挽く風景というのは、現代はほとんど見られないが、昔は冷蔵庫のない時代で、氷室に氷を貯蔵、それを街まで運び出して、飲み物などに使ったらしく、同様の光景が夏になると頻繁に見られたようだ。

氷を挽く風景への好み

作者は氷を挽くという風景がなぜかしら好きであったようで、『赤光』においても、

「氷きるをとこの口のたばこの火赤かりければ見て走りたり」

というのがある。

このとき、作者は師の伊藤佐千夫の急逝の報を受けて、文字通り走っていたのだが、その最中でも、氷を着る風景に心を惹かれていたようだ。

他の歌集においても、氷挽きの風景は折々詠まれていることを、塚本邦雄が『茂吉秀歌』で示している。

 

斎藤茂吉自註『作家四十年』より

この夏の暑さの厳しかったことを回顧的に言った(一首前の歌の解説に続けて)街頭で氷を挽いているのは、なんとなし暗示的でいい。秋口になって氷を挽く音を聞いているところで、前の一首のみでも物足りぬからここにも一首抜いた。(-『作歌四十年 自選自解 斎藤茂吉』

 

佐藤佐太郎の解説

一方は「四角の氷」を主都とし、一方は「町なかの家」を主にしている。そして「秋に入りし」「秋づきて」との関連ええによって、「何となし暗示的」になるのであって、そこに作者の発見があったのだと、私は思っている。「秋づきて心しづけし」が動かすことのできない確かさをもってひびくのはそのためである。また「氷を挽きをる見れば」といってあの特殊な鋸の「音」をも感じさせるのは、単純化を追求する短歌の表現に伴う権利である。 ―「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

「ともしび」の一連の歌

日の光きびしかりしをおもふとき今日このごろは涼しくなりぬ

秋に入りし歩道あゆみて我は見たり四角の氷を並めて挽けるを

家ごもり久々にして街ゆけり青山どほりの祭すぎつつ




-ともしび

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