死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
斎藤茂吉の代表作短歌集『赤光』の有名な連作、「死にたまふ母」の代表的なの歌の現代語訳と解説、観賞を記します。
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斎藤茂吉の記事案内
『赤光』の歌一覧は、斎藤茂吉『赤光』短歌一覧 現代語訳付き解説と鑑賞にあります。
※斎藤茂吉の生涯と、折々の代表作短歌は下の記事に時間順に配列していますので、合わせてご覧ください。
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
(読み)しにちかき ははにそいねの しんしんと とおだのかわず てんにきこゆる
現代語訳
間近に死の迫った母に添い寝をしていると、静まりかえった夜更け、遠くの田にしんしんと鳴く蛙の声が空に響いて聞こえてくる
出典
作者:斎藤茂吉
出典:歌集『赤光』 死にたまふ母
歌の語句
・「死に」は「死ぬ」の名詞化したもの。「しに」で一つの名詞です。
参考:死にせれば人は居ぬかなと歎かひて眠り薬を飲みて寝んとす『赤光』
・しんしんと…擬態語
擬態語は「物事の状態・身ぶりを、それらしく表した語」
「しんしん」は一般的に「あたりがひっそりと静まりかえっている様子」を指すが、この歌では、「かえるの声」の擬音のどちらにでもかかると思われる。解説参照のこと。
・遠田…読みは「とおだ」。遠くの田んぼ
・かはづ…蛙(かえる)の古語 かえるのことだが、「かはづ」の音(おん)は、「かえる」に比べて重々しさがある。
・天…空をさす言葉 「てん」と読むが「あめ」と読まれることもある。「空」よりも「天」の方が荘重であり、宗教的な響きもある。
句切れについて
句切れなし
修辞と表現技法
・「かはづ」の後には助詞の「は」、または「の」(古語の助詞 現代の「は」と同じ。
「しんしん」の位置と意味
表現技法としては、上句にも下句にも関連する「しんしんと」を三句に置くことで、上句と下句が密接につながれる。
同時に「しんしんと」を間に置くことで、以下のように、部屋の中から外の空の広い空間への転換がある。
「母の寝ている部屋の中→(しんしんと)→遠くの田んぼ」
また、意味のそれほどない「しんしん」の言葉で一種の”休止”を置くことで調べを整え、上下の句、特に、下句の意味がそれぞれ際立つことになる。
「生」と「死」上下句の対比
上句は死期の近い母とその静けさ、下句は、生きているものの声の波動、つまり、音のないものと音のあるものという対照的な二つのものと場面が置かれる。
「音のないもの」の静けさは、すなわち「死の静けさ」である。
「のど赤きつばくらめ」の短歌の例
このような生と死の対比と対照性は「のど赤きつばくらめふたつ屋梁(はり)にいて足乳(たらち)ねの母は死にたまふなり」とも共通する。
「つばめ」は生きているものであるが、生きている「つばめ」に対照して置かれるのが、亡くなった母である。
この転換点の間に置かれるのが、先に述べたように、「しんしんと」の擬音となる。
歌の場としては、「しんしんと」を挟んで、部屋の中から外へ、場面が大きく転換することとなるのだが、建物の中から外部空間の移動と同時に、蛙の声は生の側にいる作者の悲傷の慟哭となって夜空に響き渡る。
狭い空間から広い空間へ、その広がりが、生ある故の作者の悲しみの大きさに比例して広がっていく。
「聞ゆる」の連体止め
結句の「聞ゆる」は連体形。
終止形は「聞(きこ)ゆ」(文語では送り仮名は「ゆ」)。
普通、短歌の終りにも終止形が使われるが、短歌で、連体形で終えるのは、「連体止め」と言われる技法となる。
一般的には終止形よりも、音韻が「ラ行」で柔らかく、余韻を残した終わり方になるとされる
品田悦一氏の音韻解説
なお、品田氏はこの歌の声調にも注目し「し(に)」「そ(いねの)」「し(んしんと」のサ行の韻、と、下句の「と(おたの)か(わず)」「て(んに)き(こゆる)」のタ行-カ行の反復について説明している。(『斎藤茂吉』)
死に近き 母に添寝の しんしんと 遠田のかはづ 天に聞こゆる
si・・・・・・so・・si・・・to・・to・・ka・・te・・ki
上に示す「s」の音と、「k」の音、「t」の音の声調が、この歌の意味と共に、いわば歌の大きな”柱”をなしているとの指摘である。
解説と鑑賞
この歌の解説と鑑賞を述べます。
「死にたまふ母」のクライマックス
斎藤茂吉の「死にたまふ母」のクライマックスを作る歌がこの歌です。
※「死にたまふ母」のあらすじ全体は下の記事で
「死にたまふ母」連作のあらすじを知って理解を深めよう 斎藤茂吉作
東京に住む作者が母の命があるうちにと急いで到着、命はあっても、母は話をすることもできないほど重病であり、医者である作者斎藤茂吉からすると、もう長くないことがわかる。
作者は、母の様子を見守るために、また母に残された時間を一緒に過ごしたい一心で、夜は母の傍らに添い寝をします。
あたりは静まり返って身動きもしない母は物音も立てません。その静寂の中で、遠い田んぼにいる蛙の声だけが聞こえる。
母の命の灯火を見守る作者には、まるでその声が自分の悲しみを天に訴えるかのようにも思えます。
そのような崇高とも言える祈りに満ちた時間と空間を、偶然に聞こえる「蛙の声」と、特殊な「しんしんと」の擬態語、「天に聞ゆる」の言葉を駆使して、見事に表しています。
「死に近き」のポイント2つ
この歌の大きなポイントは3句の「しんしんと」の使い方、それと結句の「天に聞こゆる」にあるといえます。
「しんしんと」の解釈について
季節は晩春の頃であり、「しんしん」は、一般的に夜が更けることに使われる言葉だが、品田悦一「斎藤茂吉 異形の短歌」によると、「死期の迫った母に添い寝する心境はしんしんと身に沁みて」とされているので、特に夜に関係するものではない。
佐藤佐太郎は「作者が母の重病を看るためにその傍に寝ていると、晩春の夜が更けて遠くの田に…」とあるので、夜更けを表す言葉とされている。夜をこの一語で表すとすれば、「夜」「更ける」などの言葉は省略されていることになる。
塚本邦雄は「添い寝のしんしんと」に「そのようなにおひ(薬香と老母の)をかぐ」といっており、ほとんど共感覚的な発想といえようが、やはり夜という時間に特化したものではなく、品田のいうものとも同じだろう。
斎藤茂吉の自註にある「しんしんと」
なお、茂吉の「作家四十年」には、「『しんしん』は、上句にも下句にも関連しているが、作者(茂吉本人)は添い寝の方に余計に関連せしめたかったように思う」とある。
上記の三者の意見の違いと、作者みずからの言質を合わせて考えると、「しんしんと」に実質的な意味は薄いように思う。
また「しんしん」は茂吉が使ったため、このあとアララギ派内でも一種の流行となり、他の派の歌にも多用された。
品田悦一の「しんしんと」の解説
品田は、この歌について「巷間語られるような、母に死なれた悲しみをありのままに歌い上げたという理解は「通俗的過ぎる」というが、その理由は「しんしんと」に不思議な効果があるところだとして、下のような指摘を行っている。
「しんしんと」は構文上は 「聞こゆる」に関わる句だが、声調上は上二句と連続しているため、臨終の迫った母に添い寝する心境と蛙の大合唱とが、さながらこの一句に溶かしこまれているように感じられる。『斎藤茂吉』
「しんしんと」の佐藤佐太郎の鑑賞と解釈
佐藤佐太郎による解釈は下の通り。
「添寝」は「侍寝」と同じだが、「死に近き母」から続くので通俗を脱している。「しんしんと」は、作者慣用の語だが、この歌では上句にも下句にも連続するように受け取れる。
詩の言葉はときに散文的合理性から逸脱する場合があるからそれでよいし、そこにかえって深みの出る場合もある。(以上「茂吉秀歌上」)
品田の言うことと共通性がある。そして、佐太郎は、これを「散文的合理性から逸脱する」、つまり、何かをきっちりと指し示すための言葉ではない「詩の言葉」として受け取っているところが興味深い。
「天に聞こゆる」の崇高
そしてこの歌のポイントのもう一つは、崇高な「天に聞こゆる」の結句です。
「天」の意味
死にゆく母の命の光になんとか届こうとする作者の祈り、その祈りを聞くものが「天」である。
そして、もう一つ、母の命が昇華するのであろう場所も天であることも自ずと暗示されている。
その、抽象的な意味合いを持つ天を具体化するものは、蛙の声であり、部屋という狭い空間から視覚的な広がりを持たせているのは、蛙の声の聴覚的な効果なのである。
「蛙の声」以下の佐藤佐太郎の解釈
以下は、同じく佐藤佐太郎の、岩波書店全集の説明文。
作者が母の重病を看とるためにその傍に寝ていると、晩春の夜が更けて遠くの田に啼く蛙の声が天に響いて聞えるところである。
一首は静寂の中に鼓動する悲しみのひびきを持っている。それを覆うような厳粛さが全体を支配している。
それは「死」に隣接した空気として、当然そうあるべきだが、直接には「天に聞ゆる」という言葉からつたわる感銘である。(佐藤佐太郎 岩波書店「斎藤茂吉選集1」解説)