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わがいのちをくやしまむとは思はねど月の光は身にしみにけり  斎藤茂吉『つゆじも』短歌代表作

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斎藤茂吉『つゆじも』から主要な代表作の短歌の解説と観賞です。
このページは現代語訳付きの方です。語の注解と「茂吉秀歌」から佐藤佐太郎の解釈も併記します。

他にも佐藤佐太郎の「茂吉三十鑑賞」に佐太郎の抽出した『つゆじも』の歌の詳しい解説と鑑賞がありますので、併せてご覧ください。

『つゆじも』全主要作品のテキスト筆写は斎藤茂吉「つゆじも」短歌全作品にあります。

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わがいのちをくやしまむとは思はねど月の光は身にしみにけり

歌の意味と現代語訳
自分の命の短いことを嘆こうとは思わないが、月の光は身に染みるものだよ

出典
「つゆじも」大正10年 山水人間虫魚

歌の語句
いのち……命運

くやしむ…漢字は「悔しむ」。「悔し」の動詞形。悔しく思う。後悔される。残念に思う。
「まむ」は連用形+「む」 「む」は意志を表す助動詞」

「ど」は確定逆接の接続助詞 「のに」「けれど」「ても」の意味

「しむ」は「染む」。しみ込む。ひたるの意味

けり…詠嘆の助動詞

表現技法
句切れなし

鑑賞と解釈

信濃冨士見療養中の最後の歌。

一つ前の歌と同様、念願の海外留学が決まったところで病気が見つかり、先が見えない療養というだけではなく、自らの生命の短さについて思いを至らせている。
命運であるから、嘆き悲しもうとは思わないという、受容とも諦念ともいえる心境が提示されるが、それでも月光が身に染みるといって、静かな悲しみを暗示させている。

この作者には同様の思いを述べたものが他にもあり、「草づたふ朝の蛍よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ」などもやや似た感興を与えるもので、自分の命が短いものであるという前提に立っている。

どの箇所かは忘れてしまったが、北杜夫の茂吉について書いた中には、父茂吉のそのような性向が実際にもあったということが書かれていて、短歌の上だけのことではなく、なぜかこの作者は比較的若い頃からでも実感としてそのように思っていたようだ。

ましてや、この時は病を得ている時でもあって、単なる感傷にとどまるものではないだろう。

斎藤茂吉の自註

この信濃冨士見の歌は私が稍(やや)先進になって作歌しためずらしいものであった。長崎時代にあっては、これほどの余裕さえなかったと言い得るのである。斎藤茂吉『作家四十年』

佐藤佐太郎の評

自分の生命・運命を嘆き悲しむつもりはないけれども月の光が身に沁みるというのである。「思はねど」といって、「身体的背景」を嘆く状態が出るのである。「月の光は身にしみにけり」という平凡無欲に徹した表現が実にいい。

大正9年夏以来のしんたいてきはいけいによって 培われた心境であり、「唐津浜」の歌に「朝のなぎさに眼つむりてやはらかき天つ光にてらされにけり」というのと歌謡心境である。「朝の渚に眼つむりてやはらかき天つ光に照らされにけり」というのと通う心境である。「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

一連の歌

山ふかき林のなかのしづけさに鳥に追はれて落つる蝉(せみ)あり
松かぜのおともこそすれ松かぜは遠くかすかになりにけるかも
谷ぞこはひえびえとして木下(こした)やみわが口笛(くちぶえ)のこだまするなり
あまつ日は松の木原(きはら)のひまもりてつひに寂(さび)しき蘚苔(こけ)を照(てら)せり
高はらのしづかに暮るるよひごとにともしびに来て縋(すが)る虫あり
高原(たかはら)の月のひかりは隈(くま)なくて落葉(おちば)がくれの水のおとすも
ながらふる月のひかりに照らされしわが足もとの秋ぐさのはな
飛騨の空にあまつ日おちて夕映(ゆふばえ)のしづかなるいろを月てらすなり
わがいのちをくやしまむとは思はねど月の光は身にしみにけり




-つゆじも

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