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赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり 斎藤茂吉「赤光」

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赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり

斎藤茂吉の有名な歌集『赤光』掲載の有名な短歌であり、新しい手法による近代的な感覚といわれている作品の一つです。

斎藤茂吉の赤茄子の短歌を解説、鑑賞します。

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斎藤茂吉『赤光』案内

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※斎藤茂吉の生涯と、折々の代表作短歌は下の記事に時間順に配列しています。

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赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり

(読み)あかなすの くされていたる ところより いくほどもなき あゆみなりけり

【現代語訳】

赤茄子が腐って捨てられていたところを見てから、どれほど歩いたろうとふと思うと、いくらも歩いていないことよ

【作者と出典】

斎藤茂吉 歌集『赤光』 大正元年 2木の実より

【歌の語句】

・赤茄子・・・トマトのこと。トマトはナス科の植物

・幾程もなき・・・いくらもない、わずかな

「ゐたる」の品詞分解

ゐたる 「いた」 基本形「をり」 意味は「いる」
たる 基本形「たり」 意味は存続の助動詞

【表現技法】

句切れなし

 

解釈と鑑賞

斎藤茂吉の難解であるゆえにまた興味をそそられる歌でもあり、さまざまな解釈を呼んでいるものの一つ。

塚本邦雄は「有名なことにかけては『赤光』中屈指の歌」と書いている。

「赤茄子」はトマトのこと

トマトは、当時はまだ”新しい”感覚の野菜であったようだ。

一説によると、明治生まれの人は「毒のある」野菜として、食べなかったとも言われており、その認識が利用されていると思われる。

「赤茄子」との和名の効果

トマトという名称は既に普及していたと思われるが、斎藤茂吉は、あえて「赤茄子」との和名を当てている。

それによって、あたかもトマトとは似て非なる物を詠んだもののような印象を作り出している。

このような言葉の選択もまた、作者の意図するところであったろう

 

赤茄子の歌の”新しい手法”とは

浮かびあがった写像を象徴化していく過程の一つの作り方で、心の動きそのものに主題がある。

その心の動きを可視化すると下のようになるだろう。

赤茄子の風景がきれいだったとか、そういうことではない。

赤茄子の風景は、作者の回想の風景であり、そのことから導き出されるのが、移動の距離感であり、それを追う作者の内面それ自体が、歌の主題となっている。

そのような主題はそれまでの歌にはなかったものであり、斎藤茂吉の研究家の藤岡氏はそれを「新しい手法」と指摘している。

「腐った赤茄子」は作者の心象風景を表す

同時に、心の断片に焦点を当てる、いわゆる「気分」をとらえるという点でも目新しい歌である。

表しているものは、ごくピンポイントな切り取りで、あるものは、腐った赤茄子、ただそれだけであって、あとは赤茄子をめぐる作者の時間と空間の推移の意識である。

けだるいような夏の日に、ふと幻想のように過ぎる赤いトマトの残像。

果てない歩みにも思える憂愁の中で、その目を引く情景だけが作者をふと現実に還らせ、それによって自らの歩みを振り返ることができる唯一のよすがとして歌の中にあるものがこのトマトである。

しかし、それはみずみずしい美しいトマトではない。形をとどめないまでに腐って崩れたトマト。

作者の心をとどめ得るものもまた、そのようなものでしかなかった。

作者の心もそのトマトのように倦み疲れていた。

歌が詠まれた時期についての補足

藤岡武雄氏の解説によると一首が詠まれたのは冬の1月の頃だという。

もちろんトマトが腐るまでに熟している風景を目撃したのは、8月であるだろう。

 

各歌人の赤茄子の歌の解説

以下は、佐藤佐太郎他のこの歌の解説を記します。

佐藤佐太郎の「赤茄子の歌」解説

「幾程もなき歩みなりけり」といっても、表そうとしているものは、何の目的でどこへ行ったという事件的なものではなく、単にしばらく歩いたということであり、そういうのは、「赤茄子の腐れてゐたるところ」を追想の中にふたたび追体験していることになるのである。

この一小景は、作者の行動と不可分のものとして把握されて、個性を持つことになった。晩夏、きびしい光の中に成熟の果ての疲労と哀愁とを湛えている。

その晩夏の象徴として、腐ったトマトのある一小景が浮かんで来る。一首の内容はこの近代的な哀愁の色調にある。
短歌は抒情詩としてすべて心の状態を表すものであるから、ここに何があるというように概念的事柄を詮索することなく、感情そのものを受け取って味わうべきものであるが、この一首でもまたそうである。

―――佐藤佐太郎著『茂吉三十首鑑賞』より抜粋

 

長塚節の「赤茄子の歌」解説

呆然と何か考えて歩むことすら意識しないような場合があったとして、そうしてしばらく時が経ったと思って、ふと気がついてみると、先刻は赤茄子の腐れていたところにいて、やがてそこを立って来たのであったが、まだいくらも歩いていないのだったと驚いた様子が表れている。…短歌においてたしかに一生面を開いているものである。(長塚節「『赤光』書入れ」)

塚本邦雄のコメント

私は特殊な発想と文体に甚だしく引かれる。残酷な断定と切捨に反発を感じつつ、舌鼓を打つ。

 

『赤光』一連の短歌作品

しろがねの雪ふる山にも人かよふ細(ほそ)ほそとして路(みち)見ゆるかな

赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり

満ち足らふ心にあらぬ谿谷(たに)つべに酢をふける木の実を食(は)むこころかな

山遠く入りても見なむうら悲しうら悲しとぞ人いふらむか

紅蕈(べにたけ)の雨にぬれゆくあはれさを人に知らえず見つつ来にけり

山ふかく谿の石原(いしはら)しらじらと見え来るほどのいとほしみかな

かうべ垂れ我がゆく道にぽたりぽたりと橡(とち)の木の実は落ちにけらずや

ひとり居(ゐ)て朝の飯(いひ)食む我が命(いのち)は短かからむと思(も)ひて飯(いひ)はむ
―2 木の実 より

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