結婚の短歌、結婚に関する短歌を調べようと思い立ちました。
まずは斎藤茂吉の祝婚歌を紹介します。斎藤茂吉に結婚についてどのように詠まれているのかを鑑賞します。
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結婚の短歌
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身内が結婚をすることになりました。
結婚が決まったのは、おめでたいことであり、さらにありがたい気持ちにもなります。
相手の方に感謝をするのはもちろんですが、それとは違うもっと大きなもの、その運命を授けてくださった神様のような、大いなる力の働きが思われたりもします。
またこれまでの家族のあり方や、自分自身の結婚についても、思いを巡らせたりもします。
人と人とが新しく結びつき、新しい家族が増えるということは、人の気持ちを大きく動かすものなのですね。
歌人は、これらの出来事をどう詠んでいたのか。
斎藤茂吉の短歌については
斎藤茂吉とは 日本を代表する歌人
斎藤茂吉の祝婚歌
斎藤茂吉自身は、結婚前から「おさな妻」を詠ったものはたくさんあるのですが、自身の結婚の歌を残しておりません。
第二歌集の『あらたま』には、知人の結婚に際して、お祝いとして贈ったらしい、祝婚歌の一連の作品があります。
祝婚歌三首
水のへにかぎろひの立つ春の日の君が心づまいよよ清しく
あわ雪のながれふる夜のさ夜ふけてつま問ふ君を我は嬉しむ
きぞの夜に足らひ降りけむ春の雪つまが手とりてその雪ふます
それぞれの歌の意味
一首目、水の上に、ゆらゆらと陽炎が立つ、あたたかで光うららかな春、その日にお会いした君の許嫁、フィアンセは、光の中にたいそうすがすがしいみめ麗しい方よ、ということでしょうか。
二首目は、淡雪の流れるように降る日の夜更けて、結婚をする君を私はうれしく思います。
「つま問う」は、結婚の申し込み、プロポーズということですが、ここでは新婚の契りのことを言っているようです。
三首目、昨日の夜に降っただろう春の雪が積もった上を、新妻の手を取って君が歩ませるのであろう。
内容としては、雪云々、というより、やはり新婚の初夜のことを、比喩的に詠んでいるように思います。
塚本邦雄の評『茂吉秀歌』より
これについては、塚本邦雄が、随分御親切なことであると、内容がおせっかいに過ぎると指摘して、
「(新郎)に代わりて歌う式の発想はタブーに近い。挨拶としても邪道、田舎者の立ち入り過ぎ、心ある人は眉を顰めるだろう」
と手厳しくこの歌の批評をしています。
一連の他の歌
初出の「アララギ」においては、上の歌は、「木村氏新婚歌」として8首が一連となっていたようです。
その他の歌より、見てみますと
ちはやぶる神もなしけん時じくの力を生むと嬬(つま)をこそまけ
地のうへに命いとしむ男ありよき嬬を得てそのつまをまく
いのち二つしんしんとして相寝らく力を生まむ天の足り夜を
「まく」というのは、手枕のように、相手に腕をまくことで、万葉集でよく使われた言葉です。
「相寝る」もひとつ床に寝ること、夫婦の契りを結ぶことです。
それを「ちはやぶる神もなしけん―神様もそのようにしただろう」という、古代の神さまとも並ぶもののように、新婚の夫婦を扱っています。
「地の上に」は、こちらは、天の神に対応したものでしょうか。
三首目も「相寝る―共に寝る」夜のことを詠ったものです。
これらについても、塚本は
「ますらを振りの荒々しい賀歌」と評しながら、それがら古典的野趣を「鼻白む」と言っているのですが、確かに閨のことにまで踏み込むのは、行き過ぎと言えば行き過ぎのようにも思えます。
しかし、結婚式でこれらを読み上げたのであれば、出席者は良くも悪くもそれほど理解せず、深くは考えなかったかも知れませんが。
作者茂吉にしてみれば、案外力を込めた作品であったのではないでしょうか。
個人的には、「あわ雪のながれふる夜のさ夜ふけて」は新妻を白く純潔に彩って、美しい歌と思います。
安田青風宛の祝婚歌
他に翌年にも、安田青風宛の祝婚歌として「茂吉秀歌」には下の歌も紹介されています。
ゆたゆたと明石の浦による波のゆたにさやけくならんこの妹背
「ゆたゆた」と「ゆたに」は、ゆったりとしているさま。のんびり。
「さやけく」は「清けく」、清く。
「妹背」とは、「妹」と「背」と両方。恋人、または夫婦のこと。
上の歌を含めて、結婚という儀式が重厚になるように、茂吉の特徴である万葉語や、万葉調を取り入れていると思われます。
自身の結婚については、一首も歌を詠まず、婚姻によってさまざまな悩みを負った茂吉にとっては、これらの歌には、形式的な挨拶の面はあれ、案外茂吉なりの思いを込めたものではなかったでしょうか。