『斎藤茂吉―あかあかと一本の道とほりたり』品田悦一著についての紹介です。
近刊『斎藤茂吉 異形の短歌』もふくめて、斎藤茂吉研究の最新の研究所として大変おすすめの本です。
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『斎藤茂吉―あかあかと一本の道とほりたり』について
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『斎藤茂吉―あかあかと一本の道とほりたり』は、品田悦一氏による斎藤茂吉の評伝です。
茂吉の生活を年代順に追った伝記はこれまでにもあるのですが、この本の特徴は、斎藤茂吉がどのように自分の短歌を形成していったかが、つぶさに述べられています。
また、短歌史に即して、斎藤茂吉の短歌がどのような位置付けを遂げたか、この点も資料としてぜひ読んでおきたいものです。
斎藤茂吉の短歌の特徴の他にない指摘
さらに、斎藤茂吉の短歌の特徴、これはいわゆる斎藤茂吉の文法の独自の用法など、欠点をも含む形で指摘がなされています。
品田悦一氏は、万葉集の研究者であるので、斎藤茂吉と万葉集の摂取についてもたいへん詳しいものがあります。
また、古文の文法の指摘も、誰よりも詳しい上、歌人ではなく、中立的な点から書かれた本となっている点も目新しいと言えるかもしれません。
本の中からいくつか抜き書きをしておきます。
斎藤茂吉の「異化という操作」
斎藤茂吉の短歌の独特な世界を、品田氏は「異化」という用語を使って、下のように読み解きます。
じっさい『赤光』には、日常の一齣が異様な生々しさで迫ってくる作がいくらでもあって(中略)この世界を見慣れぬ世界として再現して見せること、別の世界を創造したり、虚構したりするのではなく、「接触のしかた、経験のしかた」をずらして「新しい世界の創造」を果たすこと---のちに一般化する文芸批評の用語では、「異化(非日常化)」と呼ばれる事態がこれに該当するはずである。(シクロフスキー)
「異化」とはもとはロシアフォルマリズムの用語です。
この辺りは、茂吉についてだけではなく、構造主義世代にとっては、読んでいて大変面白いものがあります。
評伝としては、一種の愉悦を含む逸脱であり、単に日本の歌人の短歌にとどまらず、広い視野を持って描かれる観念世界の純粋なおもしろさがあるのです。
シニフィアンという要素
もう一つのキーワードが、構造主義のかなめである言語学の「シニフィアン」です。
これは斎藤茂吉だけではなく、短歌というもの、その者について述べた箇所です。
日常一般の言語活動において、私たちは、一定量の語群を相手にそれらの意味をつなぎ 合わせながら、情報を発信したり受信したりしている。このとき前景化しているのはそれらの語の所記の側面であり、能記の側面はいわば黒子のように背後に退いている。 他方、短歌の声調が意味を越えて何事かを成就するのは、私の理 解では、複数の語が音律のもとに組織されたり、互いに響き合う、または反発しあう音素が規則的・不規則的に配されたりすることにより、語と語が能記の側面で直接関係づけられること、そしてその関係が、所記の側面で取り結ばれる語と語の関係を駕することに由来する。
この箇所が滅法面白いです。
「能記」「所記」はそれぞれシニフィアン(音)、シニフィエ(意味)を指す言語学の用語です。。
簡単に言えば、短歌においては言葉の意味以上に声調が重要な構成要素であり、それなくしては歌は成り立たないということなのですが、
今の短歌は、どうしても、意味に重きが置かれているところがあります。
そして、「いい歌」だと思っているものが、実は意味以上に「音」であるシニフィアンに支えられていることに気が付かないままの場合も多々あります。
実作者の立場としては、定型という字数以上の音律や声調といったものがあるということを見落としてはならないでしょう。
端的に言えば、五七五七七に意味が取れるように言葉を並べただけのものは詩歌ではないとも言えます。
短歌の「音」についての作者が意図がなければ、字数だけでは歌ではないし、作者が意図しない限り効果は偶発的には生まれないのです。
本書では、その関連付けが音素のレベルでつぶさに述べられているところがあって、これは言語学の人ならではの焦点の当て方なのですが、一度は必ず読んでいただきたい箇所です。
佐太郎が「茂吉秀歌」で声調について述べた点も多くありますが、それは音韻レベルではなくごく大雑把であるので、音素レベルの解説に触れた点は本書の素晴らしいところだと思います。
音素と音律の解析
品田氏は音素の解析について、たいへん詳しく、ここでは、その解析の実際について、さわりのみを筆写しておきます。
例は「戒律を守りし尼の命終にあらはれたりしまぼろしあはれ」という歌です。
上二句は三つの分節「戒律を」「守りし」「尼の」からなり、それらが 五音、四音、三音と絞り込まれるように並んでいて、しかも各句の第一音節の母音はすべて/a/に揃っている。第三句「命終に」は子音/m/を含む点で上の「守りし」「尼の」と共通し、またここまでの四文節においては末尾に母音/o/と/i/が互い違いに現れる。さらに下二句では、三つの分節「あらわれたりし」「まぼろし」「あはれ」が七音、四音、三音とやはり絞り込まれるように並ぶ一方。上二句と響き合うようにして母音/a /が優勢を占め、また子音/r/および音節/wa//si/が反復されている。((注:/si/は本文では発音記号表記)
そこまでは普通の音素分析。おもしろいのは以下。
さらに、音素の配置を意味の面と関連付けるとき、まず浮かび上がるのは、「戒律を「守りし」と摩羅の「まぼろし」という、意味上は真っ向から衝突する二つの語句が、能記の側/mamorisi//maborosi/では互いに共振し、同調しようとしている点だろう。歌意としては、もちろん、尼が 戒律を守り通したことに反してまぼろしが現れたわけだが、声調上は、戒律を守り通したこと自体がまぼろしを呼び込んだようにひびくのだ。そこに「渾沌」がある。
「めん鶏ら砂あび居たれ」の歌
もう一つは、「めん鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀砥は過ぎ行きにけり」についても述べられている。
「めんどり」の/ori/が下の「ひつそり」を呼び出す関係も見落とせない。「ひつそりと」は、構文上は「行き過ぎにけり」の修飾句であり、上二句とは意味的に直結しないのだが、それでいて、「同時に鶏の動きに示される深い沈黙の世界をも暗示している」(本林七四)ように感じられるのは、第一句と第三句に声調上の焦点があって、しかも両者が音韻的に同調しているからだと思われる。
意味と音律の交錯がここまでつぶさに述べられているものは他はないと思います。
ぜひお手元にとって、じっくり時間をかけてお読みになることをお勧めします。
品田悦一氏のもう一冊の本はもう少しやさしくわかりやすく書かれており、こちらもたいへんおすすめです。
『斎藤茂吉 異形の短歌』品田悦一著 「死にたまふ母」解説