斎藤茂吉『つゆじも』から主要な代表作の短歌の解説と観賞です。
このページは現代語訳付きの方です。語の注解と「茂吉秀歌」から佐藤佐太郎の解釈も併記します。
他にも佐藤佐太郎の「茂吉三十鑑賞」に佐太郎の抽出した『つゆじも』の歌の詳しい解説と鑑賞がありますので、併せてご覧ください。
『つゆじも』全作品のテキスト筆写は斎藤茂吉「つゆじも」短歌全作品にあります。
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いつくしく虹たちにけりあはれあはれ戯れのごとくおもほゆるかも
いつくしく虹たちにけりあはれあはれ戯れのごとくおもほゆるかも
歌の意味と現代語訳
美しく虹が立った。おやおや、まるで天の遊びのように思われるのだ
出典
「つゆじも」大正9年 沙浜
歌の語句
いつくしく…基本形「いつくし」【厳し・美し】( 形シク )
意味:①いかめしい。おごそかだ。 ②尊く立派だ。大切だ。重々しく格式がある。 ③美しい。
けり…詠嘆の助動詞 二句切れ
あはれ…感動詞ああ。あれ。
ここではそれを2回重ねて使っている
おもほゆるかも…動詞はの基本形は「おもほゆ」
(自然に)思われる。
表現技法
2句切れ
あはれあはれの反復 畳語化
鑑賞と解釈
虹の美しさが、病に悩む作者にとって、あまりにもかけ離れたものであり、しかもほんの短い時間の慰藉であれば、尚更「戯れのごと」のように思われたのだろう。
短歌に読まれる景色は、自分の心の状態に即したもの、並行したものが選ばれることが多いのだが、これはむしろ、鬱々とした心の対極にあるような対象物でありながら、それをうまく歌に取り入れており、自分の心境にも反することがない。
こういうモチーフの選択の仕方があるのかということに驚くばかりである。それが今の自分の心の目に映るその通りに、対象と自分とを併存させているのは見事というしかない。
斎藤茂吉の自解
ある時天の一方に美しい虹がたった。いかにも美しいものである。けれども前途が暗い病身にとっては、それがあまり見事で、何かしら自然の遊びのような気がする、戯れのような気がしてならない。そこでこういう歌になった。
この「戯れの如く」云々は、後年、昭和16、7年になってからひょいと浮かんだ句だが、遠く大正9年に既に作っているのであった。(『作歌四十年』斎藤茂吉)
佐藤佐太郎の評
7月の温泉獄の歌に「あそぶごと雲のうごける夕まぐれ近やま暗く遠やま明し」があり、「あそぶごと」に通う「戯れのごと」であるが、こういう比喩は児童でもいうかもしれない。しかし児童にあっては認識のない好悪にすぎないだろう。
この歌にはもっと深い生の嘆息がこもっている。美しさの極限といってもいいような虹の現象を「戯れのごと」と言ったのは、言葉によって就職したのでなく、虹そのものを言い当てたのである。
息長くのびのびと言葉をつづけているが、その名k内切実さがあって、不思議なひびきをもった歌である。「茂吉秀歌」佐藤佐太郎
一連の歌
九月八日 沙浜
いつくしく虹(にじ)たちにけりあはれあはれ戯(たはむ)れのごとくおもほゆるかも
日を継ぎてわれの病やまひをおもへれば浜のまさごも生しやうなからめや
わがまへの砂をほりつつ蜘蛛くもはこぶ峰のおこなひ見らくしかなし
わたつみを吹きしく風はいたいたしいづべの山にふたたび入らむ