斎藤茂吉は、日本の近代短歌を代表する歌人の一人です。
斎藤茂吉はどんな人だったのか、人物像と人柄についてお知らせします。
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斎藤茂吉とは
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斎藤茂吉は、1882年(明治15年)5月14日山形県生まれの歌人。本業は精神科医。
1913年に刊行した歌集『赤光』によって、一躍有名な歌人となり、歌人として世に知られるようになりました。
他に『あらたま』「白桃」「白き山」など17冊の歌集があり、生涯で1万8千首の短歌を詠んだと伝えられています。
アララギ派の歌人として、生涯に渡って作歌を続け、現在も日本の代表的な歌人の一人とされています。
斎藤茂吉の作品については下の記事を
斎藤茂吉の性格分類
斎藤茂太氏が、クレッチマーの性格分析を用いて、斎藤茂吉の性格分類を行いました。
ある個人の性格全体を100として、そのうちS(分裂性性格)、Z(躁鬱性性格)、H(ヒステリー性性格)、N(神経性性格)、E(てんかん性性格)がそれぞれ何%という方法で性格をとらえようというものですが、その分析では、斎藤茂吉は、Eが47.8%、 Nが34.9%、Sが17.3%だということです。
その結果が、「粘着性気質」という結論となっています。
精神科医として
斎藤茂吉は、有名な歌人でありながら、正業は、精神科医で、しかも病院の院長職も務め、生活は常に多忙でした。
『赤光』には、まだ医師になりたてで、患者の自殺に苦慮する様子や、精神科医としての自らの境涯を嘆く歌もみられます。
精神科医としての短歌は
精神科医斎藤茂吉が詠う病者の哀しさ
斎藤茂吉の人柄
斎藤茂吉の普段の人柄についてよく言われることは、とにかく怒りっぽかったということです。
「雷親父」だった斎藤茂吉
斎藤茂吉の長男の斎藤茂太氏は
私どもは普段父のカミナリの恐怖にさらされていたが、父は一度他人の前に出ると打って変わって応対はいんぎん無礼を極めた。母には絶えず大きな雷が落ちたが、母は抵抗力はきわめて旺盛であったからいいとして、一番惨めなのは私であったと思う。日夜ただ恐れおののいていたといえば大げさになるが、とにかく楽な気持ちで付き合えた経験は、少なくとも子供の頃には一日もないと言っていい 。―「『いい人』」が損をしない人生術」斎藤茂太著より
斎藤茂吉の次男で、作家の北杜夫氏も「雷親父」と斎藤茂吉について記しています。
父は雷親父で、幼い頃からその激怒の凄じさに、こんな父を持って損をしたと考えることのほうが多かった。昆虫採集などよい趣味だと思うのだが、それさえも禁じ、学校の勉強だけをしろと叱った。世間では偉い人だと言われているようだが、私は父の短歌を読んだこともなかったし、どこが偉いのか露ほどもわからなかった。―『どくとるマンボウ 青春の山』北杜夫著
すさまじい短歌の論争
斎藤茂吉の癇癪ぶりは、短歌の論争の時も見られました。
歌人の太田水穂との「病雁論争」では
自身の作品をこき下ろした太田水穂に対し「水穂征伐」なる反論を書き「僕にかりそめにも刃向かうごとき者がゐたなら必ず死ぬ。水穂もそろそろ要心せよ。」「そんな低級魯鈍者流ではもはや僕の論敵にはなれぬ。」
と相手を罵倒したこともよく知られています。
そのため、斎藤茂吉は、このような論争の相手としては敬遠されていたようですが、芭蕉の蝉の種類を論じた際には、綿密な調査の上、潔く誤りを認めたことがあります。
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「接吻」の随筆
茂吉は、ウイーン滞在中、偶然にキスする男女を見つけ、その恋人同士の接触について、「接吻」という随筆を記しました。
それによると、あまりの長さに「長いなあ。実に長いなあ。」と独り言を言いながら物陰から一時間近くも覗いていたといいます。
ただし、「粘着性気質」、言い変えるとある種の凝り性と熱中癖は、下に述べるように、短歌の歌人とした上では、斎藤茂吉の長所の一つであったとも思われます。
斎藤茂吉の特異な体質
斎藤茂吉が体臭が強かったことは、家族が証言しています。そのためか、虫に食われやすい体質であり、蚤や、南京虫などを退治しようとする短歌が残っています。
また、自律神経が過敏であり、雨が降る前に頭痛がするなどの、何らかの予兆を身体で感じ取っていたようです。
他にも、頻尿であるため、山形県に疎開後暮らしていた際には、どこでも小用が足せるように「極楽」と名前を付けた、バケツを携帯していました。
便秘症だったのか、マグネシウムを服用していた他、さらに、不眠症で睡眠薬も服用していることが、日記や短歌に残されています。
ポケットから出した不眠症の薬を服用したのを目撃した患者が、量の多さに驚いたとのエピソードがあるほどで、心労の大きかったときはかなりの量を服用していたことも伝わっています。
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斎藤茂吉と絵画
精神科医になるよう養子として上京する前、子どもの頃は、絵描きになろうかと思ったくらい絵がうまく、茂吉本人も自信を持っていたようです。
さらに、東洋と西洋の様々な絵画にも大変に関心が高く、特に海外留学中には、ドイツ、オーストリアは、パリなどの美術館を巡り、名画を鑑賞したことが、短歌の「写生」の技法を深めるのに、大きな影響を与えたことが知られています。
斎藤茂吉と妻の不仲
妻輝子とは、親の決めた結婚でしたが、「茂吉は妻を愛していた」と息子の北杜夫が記している通りです。
しかし、妻輝子は、ダンス教師との仲が新聞種となって、茂吉と一時別居をしていたことがあり、これが「ダンスホール事件」として世間に知られるところとなりました。
北杜夫氏によると「ダンスホール事件の前にも、二度ほど情事を行っていたらしい」、さらに、茂吉の結婚前にも、懇意にしていた医師の恋人がいたとのことで、夫妻は生涯の多くを気が合わないままに暮らしていたようです。
輝子自身も「言葉より先に手で殴った」と談話で話してもおり、双方にとって苦労の多い夫婦生活でもありました。しかし、この相克が、斎藤茂吉の人生はもちろん、作歌の大きな動機となっていたのも確かです。
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斎藤茂吉の女性関係
斎藤茂吉の女性関係については、永井ふさ子との恋愛がよく知られています。
永井ふさ子に出会ったのは50代の時で、永井は結婚を望んおり、果たせずに弁護士を連れてきて交渉を試みるなど、大きな恨みの感情が残されました。
永井ふさ子と斎藤茂吉との恋愛 相聞の短歌と結婚できなかった理由
他に、短歌では『赤光』に結婚前に「おひろ」「おくに」など、女性が題材とされる連作があります。
「おくに」は女中であったことは、輝子夫人が談話で話していますが、男女の関係ではありませんでした。
一方、「おひろ」については、斎藤家の女中で「女中と恋仲になり相聞歌を作り」と北杜夫氏が表している通りで、これは、『赤光』でも主要な連作の一つとなっています。
以上、斎藤茂吉の人柄と人物像についてまとめました。