永井ふさ子は斎藤茂吉の恋人の一人で、茂吉の手紙が公開したことで、その名が知られるようになりました。
永井ふさ子の晩年はどのようなものだったのか、二人の恋愛の結末を記します。
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永井ふさ子と斎藤茂吉
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永井ふさ子氏と斎藤茂吉が出会ったのは、昭和9年9月のこと。松山市生まれで正岡子規と縁戚関係にあたるふさ子はアララギに入会、斎藤茂吉に出会います。
ふさ子24歳、茂吉52歳の時のことです。
その後二人は交際、昭和10年から16年に渡る7年間に間が途切れながらも交際を続けました。
斎藤茂吉からふさ子に当てて書かれた手紙は150通に及び、その大半を茂吉の死後、ふさ子が公開して、二人の交際が知られるところとなりました。
この間の二人の交際の詳しいところは、前の記事でご覧ください。
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永井ふさ子の晩年
永井ふさ子(以下、敬称略)のその後は空白となっていますが、晩年の様子が断片的に伝わっている部分もあります。
ふさ子の晩年はどのようなものだったのでしょうか。
永井ふさ子は生涯独身だった
まず、ふさ子は生涯独身のままでした。「独身を貫いた」と言えばそうなのですが、元々ふさ子は、肺疾患や腎臓病の経験があり見合いもなかなかまとまらず、茂吉と出会ったときも既に25歳、当時としてはいわゆる行き遅れの状況でした。
ある意味、結婚を諦めていた心境であったのかもしれず、そのため東京に”遊学”していた折の茂吉との出会いであったのです。
母上の死後は一人で生活
茂吉と別れた後は、誰とも結婚はせず、母上と二人で暮らし、その後母上を看取ったこともわかっています。
生活費を稼ぐために働いていたとのことですが、職業が何だったのかまでは伝わっていません。
短歌もやめてしまった永井ふさ子
永井ふさ子は斎藤茂吉との関係が終わってからは、短歌をやめてしまいます。
残された歌からは、大変な才能があったことがうかがえ、その才を惜しんで、歌を続けてほしかったと書いている秋葉四郎氏のような人もいます。
斎藤茂吉の死を一人知る
昭和28年2月25日、斎藤茂吉が亡くなります。
短歌をやめて、アララギとも遠ざかっていたふさ子がその死を知ったのは、テレビのニュースであったということです。
ふさ子にとっては、人伝えどころか、ニュースで知る茂吉の死は、一層悲しいものであったに違いありません。
「あんずの花」歌集の出版
斎藤茂吉と別離の後は短歌をやめてしまったふさ子ですが、母上の挽歌や斎藤茂吉の墓やゆかりの地を訪ねた時など、強く心を動かされただろう時に詠まれた歌が残っています。
その後は藤岡武雄氏主宰の短歌雑誌「あるご」に参加、同じ藤岡氏のすすめで、永井ふさ子歌集『あんずの花』を出版。
残念ながら、ふさ子は歌集の完成前の平成5年6月8日、83歳にて亡くなりました。
終焉の地は伊東市で、疎開後はそのまま伊東市で暮らしていたようです。
永井ふさ子のお墓は故郷、松山市の長健寺にあります。
墓には、下の歌が刻まれています。
ありし日の如くに杏花さけりみ魂かえらむこの春の雨
歌集タイトルにもなった「あんずの花」の歌。「み魂」は、この歌の前に亡くなった父上を指します。
斎藤茂吉との件で悲嘆にくれた永井の父上は早くに亡くなりましたが、それも娘の恋愛に心を痛めたためとも言われています。
ふさ子とその家族の心情を思うと胸が痛む思いですが、残された歌の美しさはこの先も変わることはありません。