短歌に詠まれるのは、美しい晴れた日ばかりではなく、斎藤茂吉は梅雨の憂鬱な風景もたくさん歌に詠んでいます。
斎藤茂吉の梅雨の短歌、梅雨の季節の周辺に詠まれた短歌をご紹介します。
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斎藤茂吉の梅雨の短歌
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斎藤茂吉の梅雨の短歌、梅雨の季節の周辺に詠まれた短歌をご紹介します。
どんよりと空は曇りて居りしとき二たび空を見ざりけるかも
歌集『赤光』「みなづき嵐」より梅雨空の曇りを詠った作品。
晴れている空なら、何度も見上げたくなるが、「再び空を見なかったのであったなあ」と、自らの行為を振り返って詠んでいるのです。
初句の「どんよりと」がポイント。この言葉は、石川啄木も用いています。
当時、茂吉は、この作品が得意で、短冊に書いた(若山喜志子)とのことです。
どんよりと空は曇りて居りしとき二たび空を見ざりけるかも 斎藤茂吉『赤光』
一連の他の短歌
うつうつと湿り重(おも)たくひさかたの天(あめ)低くして動かざるかも
わが体(たい)にうつうつと汗にじみゐて今みな月の嵐ふきたつ
にはとりの卵の黄味の乱れゆくさみだれごろのあぢきなきかな
歌集『赤光』 「さみだれ」6月作。
梅雨時には鶏の卵にも変化があるとのこと。要は、味がおいしくなくなるということなのでしょうが、それを「黄身のみだれゆく」として、「さみだれ」と韻を踏むように使っています。
『赤光』には感覚的に鋭い作品が他にも見られます。
ご子息の指摘によると、茂吉には雨が降る前に自律神経が反応して、それがわかったというエピソードもあり、そような作者ならではの気づきなのでしょう。
一連の他の歌
さみだれは何(なに)に降(ふ)りくる梅の実は熟(う)みて落つらむこのさみだれに
あが友の古泉(こいづみ)千樫(ちかし)は貧しけれさみだれの中をあゆみゐたりき
けふもまた雨かとひとりごちながら三州味噌をあぶりて食(は)むも (六月作)
なにがなし心おそれて居たりけり雨にしめれる畳のうへに
歌集『ともしび』より。
作者は梅雨の重苦しい雰囲気を感じていたようで、それが「なにがなし」という、説明しがたい感情を表す初句となっています。
その心を呼び起こすものが、湿った畳だというのです。
この時、茂吉は海外留学から帰国。梅雨のない外国と比べて、「畳」の湿りにも敏感に反応しています
木のもとに梅はめば酸しをさな妻ひとにさにづらふ時たちにけり
歌集『赤光』より。
梅雨の季節の梅と幼い妻を詠んだよく知られた作品。
解釈が議論を呼びましたが、作者は「梅を食っていた時、その味と周囲の関係から、観念の連合作用によって一種不安の気分になった」と説明しており、実際の風景よりも、梅の味からの連想であったようです。
他の梅の歌
さみだれのけならべ降れば梅の実の円(つぶら)大きくここよりも見ゆ
夏晴れのさ庭の木かげ梅の実のつぶらの影もさゆらぎて居り
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梅雨の晴れ間の今日は、斎藤茂吉の梅雨の時期に詠んだ短歌をご紹介しました。