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さ夜ふけて慈悲心鳥のこゑ聞けば光にむかふこゑならなくに/斎藤茂吉短歌解説

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さ夜ふけて慈悲心鳥のこゑ聞けば光にむかふこゑならなくに

斎藤茂吉『ともしび』から主要な代表作の短歌の解説と観賞です。
このページは現代語訳付きの方です。語の注解と「茂吉秀歌」から佐藤佐太郎の解釈も併記します。

他にも佐藤佐太郎の「茂吉三十鑑賞」に佐太郎の抽出した『ともしび』の歌の詳しい解説と鑑賞がありますので、併せてご覧ください。

斎藤茂吉がどんな歌人かは、斎藤茂吉の作品と生涯 特徴や作風「写生と実相観入」 をご覧ください。

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さ夜ふけて慈悲心鳥のこゑ聞けば光にむかふこゑならなくに

読み:さよふけて じひしんちょうの こえきけば ひかりにむかう こえならなくに

歌の意味と現代語訳

夜が更けて慈悲心鳥の声を聞いてみれば、光に向かって鳴く声ではないのだなあ

歌集 出典

「ともしび」大正14年 木曾鞍馬渓10首

歌の語句

さ夜……「さ」は接頭語 「小夜」とも書く

慈悲心鳥……ブッポウソウ、仏法僧鳥の異名

声ならなくに……「ならなくに」は、「…でないことだなあ。…ではないのだよ」の意味で、文末に用いる

他に、「我ならなくに」との結句でよく使われる。

例:
笹原をただかき分けて行き行けど母を尋ねんわれならなくに
「死にたまふ母」『赤光』

表現技法

一首の表現で目につくところを挙げる

「ならなくに」

「ならなくに」は連語。

動詞や、体言止めとは違って余韻のある歌の結句となる

構成

「声聞けば」の仮定条件で一度はっきりと切れ、「光にむかうこえ・ならなくに」の45句は句またがりを含み、一気に読まれて、結句の「ならなくに」で余韻を残すものと思われる

鳥の名前

この鳥を詠った他の歌には「仏法僧」と呼んだものもあるが、この歌では「仏法僧」とせず、「慈悲心鳥」としたのにも、選択の理由があると思われる。

 

鑑賞と解釈

木曾氷が瀬に遊んだ折、慈悲心鳥の声を作者は初めて聞いたようだ。

慈悲心鳥の歌は14首もあり、島木赤彦との競作もあり、注文に応じたとも言われるが、この鳥の声に興味を引かれたようだ。

斎藤茂吉自身はこの鳥の声を「ジッシーン」と表している。

ちなみに「ブッポウソウ」という命名となった鳴き声の「ブッポウソウ」と実際に鳴くのはコノハズクであって、その昔の命名の際に名前を取り違えられたとされる。

夜に鳴く鳥

茂吉の他の歌を見ると、いずれの声も明け方や、夜に鳴いている声であって、昼間鳴く鳥ではないようだ。

「光に向かう声ならなくに」は実際に夜に聞いた声である上に、たとえば高らかになく雲雀のような鳴き方ではなく、地味な鳴き声でもあり、闇に似合う音声としてとらえられたのだろうと思う。

鳥の名前を「仏法僧」とせず、「慈悲心鳥」としたのは、字数や音の爲もあるだろうが、「仏法」とあからさまでない表記を選んだとも思われる。

仏教と「慈悲」

塚本邦雄は「慈悲」を「仏教の菩薩の徳の一つ」の仏教用語としてとらえ、この歌の性格を、仏教の救いのいわばネガとしての印象を書いている。

すなわち、慈悲の裏には、人の苦しみというようなものがあり、「光にむかう声ならなくに」はその人の苦しみを暗示しているかのようである。

そして、実際に、この歌集『ともしび』において、茂吉は火難のあとの苦労のし続けであって、今回のような旅は、束の間それを忘れさせてくれる貴重な時間であったと指摘したのは岡井隆であった。

斎藤茂吉自註『作家四十年』より

はじめの二首は氷が瀬に一夜と待って、終夜慈悲心取りを聞いた時の歌である。慈悲心鳥は十一ともいい、ジッシーンと啼く、この声は切実で、仏法僧鳥とはまた別の味わいである。そうして、夜鳥のこえは鶯のごとき光明に向かう性質でなくて、闇黒に向かって沁みとおるような性質に思われる。そこで「光にむかふこゑならなくに」といい表した。

佐藤佐太郎の評

この四五句は単純で大柄でしかも切実でたいへんいい。あるいは言葉の光沢があり過ぎるように感じる人もあるかもしれない。しかし、短歌はこのような光沢を全く否定しては味わいというものがなくなるだろう。

調子が張っていて、響きが強いのはこの作者の特色だが、この辺りの歌は特に言葉がひびいている。

「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

一連の歌

慈悲心鳥ひとつ啼くゆゑ起きいでてあはれとぞおもふその啼くこゑを

まぢかくの山より一夜きこえ来し慈悲心鳥は山うつりせず

夜ふけて慈悲心鳥の啼く聞けばまどかに足らふ心ともなし

夜ふけし山かげにして啼くらしき仏法僧鳥のこゑのかそけさ




-ともしび

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