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たまたまに手など触れつつ添ひ歩む枳殻垣にほこりたまれり 斎藤茂吉『赤光』

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たまたまに手など触れつつ添ひ歩む枳殻垣にほこりたまれり

斎藤茂吉『赤光』から主要な代表歌の解説と観賞です。このページは現代語訳付きの方です。

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斎藤茂吉の記事案内

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「死にたまふ母」の全部の短歌は別ページ「死にたまふ母」全59首の方にあります。

※斎藤茂吉の生涯と、折々の代表作短歌は下の記事に時間順に配列しています。

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たまたまに手など触れつつ添ひ歩む枳殻垣にほこりたまれり

読み:たまたまに てなどふれつつ そいあゆむ からたちがきに ほこりたまれり

現代語訳

たまたま手を触れながら枳殻の垣根に添って歩いてくると、その垣根に埃がたまっていた

 

出典

『赤光』明治44年 4うめの雨

歌の語句

添い歩む・・・脇に添って歩む

表現技法

句切れなし

 

解釈と鑑賞

この一連の前半は、「はかなき身も死にがてぬこの心君し知れらば共に行きなむ」「おもひ出も遠き通草(あけび)の悲し花きみに知らえず散りか過ぎなむ」など、感傷的で現実感の薄い歌が多い中で、佐太郎が言うように感情を表す語がなく、事実そのままを歌っている。

その一首前の「常のごと心足らはぬ吾ながらひもじくなりて今かへるなり」も同様日常の瑣事ともいえる。どうも前半のスタイルだけでは飽き足らず、加えた歌のような気もする。

「心足らはぬ」状態を様々に言い表そうとした一連でもあるようだ。

なお、この「ほこり」は後の「死にたまふ母」の「塵」にも似通っており、「ほこり」や「塵」はそこにたまたまあったものではなく、写生の凝視が生み出した素材と考えるべきだろう。

佐藤佐太郎の評

その青い枝にほとんど目立たないほこりがついているところに、近代的な憂愁を感じたのである。瑣末を瑣末のままとらえて、実体をありありと表現することによって、切実に感情を表しているのである。「たまたまに手など触れつつ」という一二句によって、枳殻垣のほこりは、現実そのままの気息を持って迫ってくるのである。(佐太郎)

 

次の歌

しろがねの雪のふる山にも人かよふ細ほそとして路見ゆるかな

 

現代語訳


銀色一色の雪の降る山の中にも人が通る細い細い道が見えるのだ

出典

『赤光』大正元年 2木の実

歌の語句

しろがね・・・銀色
かよふ・・・通う
かな・・・詠嘆の終助詞

表現技法

句切れはない

解釈と鑑賞

睦岡山中のなかの一首。

東北の冬の山を見て作ったものだが、雪が降ってもまだ通う路が見えるという感慨と、雪降る冬の山にも生業のためには人等が通うという感慨とが相交錯していたのであろう。初句に「しろがねの」と老いたのは意味よりもむしろその音調から選ばれている。(斎藤茂吉著『作歌四十年』より)

 

「しろがねの雪ふる山」が簡潔でさわやかでいい。「しろがねの」は「雪」の白さを形容したのだが、意味合いよりも音調によって「雪」につづけており、さらに雪の積もっている山を「雪ふる山」とというのが簡潔で自在である。(「茂吉秀歌」佐藤佐太郎)




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