とほき世のかりようびんがのわたくし児田螺(たにし)はぬるきみづ恋ひにけり
斎藤茂吉『赤光』から主要な代表作短歌の解説と観賞を記します。
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斎藤茂吉の記事案内
『赤光』一覧は 『赤光』短歌一覧 現代語訳付き解説と鑑賞 にあります。
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※斎藤茂吉の生涯と代表作短歌は下の記事に時間順に配列しています。
とほき世のかりようびんがのわたくし児田螺(たにし)はぬるきみづ恋ひにけり
現代語での読み:とおきよの かりょうびんがの わたくしご たにしはぬるき みずこいにけり
作者と出典
斎藤茂吉 『赤光』 田螺と彗星
一首の意味
遠い昔の迦陵頻伽の私生児である田螺はそれゆえに南国のようなぬるい水を恋しがっているのだなあ
語句
- かりようびんが…想像上の鳥。漢字は、迦陵頻伽。阿弥陀経の中に登場する上半身が人で、下半身が鳥の仏教における想像上の生物をいう。
- 田螺…たにし 淡水に生息する巻貝の一種
- わたくしご…私生児のことを作者が言った言葉
「水恋ひにけり」の品詞分解
「水を恋ふ(う)」 主語は田螺
「恋ふ」の連用形+完了の助動詞「ぬ」の連用形+詠嘆の助動詞「けり」
「けり」は「…だなあ」「であることよ」などと訳せる
解説と鑑賞
『赤光』の中にある初期作品の一つ。明治四十三年作。
斎藤茂吉が写生に軸足を移す前の歌で、空想の世界を歌っている。
アララギの題詠
この歌はアララギの募集作品の題が「田螺」であるため、その題詠として詠まれた。
歌の内容
歌の内容は、作者の空想で、田んぼなどにいる田螺が迦陵頻伽が産んだ子どもであるという空想にもとづく。
迦陵頻伽とは
迦陵頻伽は、仏教の経典阿弥陀経に登場する鳥の一種類で
「かの国にはつねに種々奇妙なる雑色の鳥あり。白鵠・孔雀・鸚鵡・舍利・迦陵頻伽・共命の鳥なり」
として登場する。
上半身が人で、下半身が鳥で、天女のように美しく、その鳴き声も雅な声とされている。
田螺との関連
迦陵頻伽と田螺との間に関連はなく、これは作者斎藤茂吉の作り出した関係であるようだ。
「かの国」とはインドを指し、このような暖かい国であるから、そこにすむ鳥の子どもである田螺も温かい水を恋しがっているというのが歌の意味である。
この一連を見るとわかるが、田螺の母が迦陵頻伽であるとすると、初版では父は「南蛮男」となっているが、改選版ではその歌は省かれた。
『赤光』の題名の由来
斎藤茂吉の初期の傾向が顕著な歌であるが、仏典に題材をとることは後々まで影響をした。
『赤光』の歌集タイトルそのものも、阿弥陀経の文言から採られている。
斎藤茂吉の空想的傾向
アララギに入門したころは斎藤茂吉は写実や写生よりも空想的な傾向のある歌が多かった。
とほ世べの恋のあはれをこほろぎの語(かた)り部(べ)が夜々つぎかたりけり
月落ちてさ夜ほの暗く未だかも弥勒(みろく)は出でず虫鳴けるかも
ヨルダンの河のほとりに虫鳴くと書(ふみ)に残りて年ふりにけり
師であった伊藤左千夫は「斎藤は理想派」と評しながら、茂吉の空想的傾向を戒めた。
後になって斎藤茂吉自身、左千夫の指導を受けたことに、
「左千夫先生の門人でよかった。鉄幹の門人にでもなったら、どうなっていたことだろう」(土屋文明『伊藤左千夫』)
と述べるまでになった。
この歌の一連
1 田螺と彗星
とほき世のかりようびんがのわたくし児|田螺(たにし)はぬるきみづ恋ひにけり
田螺はも背戸(せと)の円田(まろた)にゐると鳴かねどころりころりと幾つもゐるも
わらくづのよごれて散れる水無田(みなしだ)に田螺の殻は白くなりけり
気ちがひの面(おもて)まもりてたまさかは田螺も食べてよるに寝(い)ねたる
赤いろの蓮(はちす)まろ葉の浮けるとき田螺はのどにみごもりぬらし
味噌うづの田螺たうべて酒のめば我が咽喉仏(のどぼとけ)うれしがり鳴る