わかまつや旅館は、斎藤茂吉が『赤光』の短歌代表作「死にたまふ母」を詠んだ場所と言われています。
斎藤茂吉ゆかりの場所「死にたまふ母」にある母の葬儀を終えて滞在したわかまつや旅館をご紹介します。
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斎藤茂吉が「死にたまふ母」を詠んだ宿
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わかまつやは斎藤茂吉と親戚関係にありました。
わかまつやの主人長右エ門の會祖母の「おわか」さんは茂吉の義父斎藤紀一博士の姉であり、さらに、「おわか」さんの長男平六は茂吉の同級生で、学生時代には下宿先も同じで気の合う仲間であったと言われています。
蔵王の麓生まれの茂吉は、帰省の度にこの宿を訪れ、酒を酌み交わしたと言います。
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「死にたまふ母」に詠まれた歌
そして「死にたまふ母」を詠んだ大正2年には、葬儀の後に長滞在し、傷心をいやすかのように、瀧山に登った、その時の歌が其の4の歌です。
山かげに消(け)のこる雪のかなしさに笹かき分けて急ぐなりけり
笹原をただかき分けて行き行けど母を尋ねんわれならなくに
火のやまの麓にいづる酸(さん)の湯に一夜(ひとよ)ひたりてかなしみにけり
やま峽(かひ)に日はとつぷりと暮れゆきて今は湯の香(か)の深くただよふ
湯どころに二夜(ふたよ)ねむりて蓴菜(じゆんさい)を食へばさらさらに悲しみにけり
山ゆゑに笹竹の子を食ひにけりははそはの母よははそはの母よ
この中の登山の風景が瀧山であり、歌の中に出てくる蓴菜(じゆんさい)や笹竹の子といったものは、旅館で供された料理であるでしょう。
温泉を現した短歌は他にも
山かげに雉子が啼きたり山かげに湧きづる湯こそかなしかりけれ
酸(すゆ)き湯に身はかなしくも浸(ひた)りゐて空にかがやく光を見たり
やま峽(かひ)に日はとつぷりと暮れゆきて今は湯の香(か)の深くただよふ
「死にたまふ母」の大半は宿で詠まれた
実際には「其の4」だけではなく、「死にたまふ母」の大半は、この宿においてその時に詠まれたものだと言われています。
わかまつやが「和歌の宿」を名乗るゆえんでありましょう。
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「霜」に昭和8年の滞在時の歌
茂吉はその後、昭和8年、昭和16年にそれぞれこの地に滞在をしています。
昭和16年の作品は、登山中10首と山頂の9首、それぞれ詠まれた歌が残されています。
胡頽子(ぐみ)の実のくれなゐ深(ふ)けしこの峡(かひ)は夜空は晴れて霜ふるらむか
のぼりゆく山のはだへにこごるごと檜原は黝(くろ)し秋はさむきに
斎藤茂吉の鰻のエピソード
また無類のウナギ好きだったという茂吉の有名なエピソードも、この旅館において催された歌会の折のものだったそうです。
無類のウナギ好きだったという茂吉は、この宿で開催した歌会の際の食事で、弟子の皿に自分のより大きなウナギがのっているのを見ると、誰に恥じるところもなく取り換えさせたというものです。
子どもっぽいというか、そこまでウナギ好きであったというか、どこか微笑ましいエピソードでもあります。
斎藤茂吉関連の展示物も
わかまつやには、茂吉の書いた短冊や掛け軸なども多数展示されています。
もちろん、宿泊もできますので、蔵王の方においでの際は、こちらで茂吉の展示物を見ながら、茂吉の好んだ温泉に浸ってゆっくりされるのがよろしいでしょう。