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ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも『あらたま』現代語訳 斎藤茂吉

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ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも は斎藤茂吉の『あらたま』の秀歌の一つとされており、斎藤茂吉の代表作にも数えられています。

この歌の解説と鑑賞を記します。

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『あらたま』斎藤茂吉の代表作解説と鑑賞

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斎藤茂吉の代表作の解説、このページは、現代語訳付きの方で、語の注解と「茂吉秀歌」から佐藤佐太郎の解釈も併記します。

他にも佐藤佐太郎の「茂吉三十鑑賞」に佐太郎の抽出した『あらたま』の歌の詳しい解説と鑑賞がありますので、併せてご覧ください。

『あらたま』全作品の筆写は斎藤茂吉『あらたま』短歌全作品にあります。ゆふされば大根の葉にふる時雨(しぐれ)いたく寂しく降りにけるかも

ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも

読み:ゆうされば だいこんのはに ふるしぐれ いたくさびしく ふりにけるかも

歌の意味と現代語訳

夕方になって大根の葉に降る時雨の、たいそう寂しく降ることだなあ

作者と出典

斎藤茂吉 『あらたま』大正3年 13 時雨

歌の語句

ゆふされば・・・夕されば
「されば」は、なったので、なると、の意味。
時雨・・・秋の末から冬の初めごろに、降ったりやんだりする小雨をいう。
けるかも・・・「かも」は詠嘆。~であることよ。

表現技法

・三句の「ふる時雨」のあとには「は」、または「の」の助詞が省略されている

・句切れなし

鑑賞と解釈

鑑賞と解釈を記します。

みゆき公園の歌碑

大正5年秩父山中詠の中の一首。山形県上山市のJR茂吉記念館前駅前にある「みゆき公園」の歌碑にこの歌がある。

なお、作者は色紙にもこの歌をよく記したように伝わっているので、自分でも気に入っていたのだろう。

4、5句の調べ

自解には「日本的風光を素朴に印象的に言って、「いたく寂しく降りにけるかも」と一直線に言い下すという手法」(斎藤茂吉著『作歌四十年』より)と述べている。

「降る」という動詞一語に助動詞を加えて7音全部を使うことで得られる調べの長さと、その効果を味わいたい。

前掲の歌との対比

なおこの歌の前には「片山かげに青々として畑あり時雨の雨の降りにけるかも」という、ほぼ同じ情景を言葉を変えて詠った歌がある。

単純化の表現技法

モチーフは類似のものであるが、「片山かげ」の場所が、「ゆふされば」の時に換えられている。

そして、「青々として」という視覚のポイントはなくなり、「大根」の具体が示され、さらに「いたく寂しく」と強調され、初句「ゆうされば」の時刻の提示と相まって、その情緒を強めている。

塚本邦雄と佐藤佐太郎の評

他にも類似のモチーフの見られる歌「山こえて片山かげの青畑ゆふべしぐれの音のさびしさ」「ひさかたのしぐれふりくる空さびし土に下り立ちて鴉は啼(な)くも」があり、この歌はその中でも、単純化の極みといってよい。

塚本邦雄は、この歌は好まなかったようで、

「けちのつけにくい佳作であろうが、未知数と可能性を秘めた秀作とは言えまい。三十三歳の歌人の、この大過なきを期したような小心翼々の作、私は採らない。」

と言っているのも少し面白い。

もし、『あらたま』ではなくて、もっと後年の作であったとしたら、評価は変わったろうか。

佐藤佐太郎の評

実質は「大根の葉」と「時雨」とだけで、それを単純に直線的にいいくだしている。大根はどういうところにあるかということもいわず、「ゆふされば」からすぐ、「大根の葉に」と続け、さらに「ふる時雨」ととつづけたのが、鮮やかで強い表現である。

それから「寂し」というのに「いたく寂しく」と感傷をためらわずに表したのがやはり強い表現である。

「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

一連の歌

13 時雨

片山かげに青々として畑あり時雨の雨の降りにけるかも
山峡(やまかひ)に朝なゆふなに人居りてものを言ふこそあはれなりけれ
山こえて片山かげの青畑ゆふげしぐれの音のさびしさ
ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも
山ふかく遊行をしたり仮初のものとなおもひ山は邃(ふか)しも
ひさかたのしぐれふりくる空さびし土に下りたちて鴉は啼くも
しぐれふる峡にいりつつうつしみのともしび見えず馬のおとすも
現身はみなねむりたりみ空より小夜時雨ふるこの寒しぐれ

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