ともしび

さ夜なかにめざむるときに物音たえわれに涙のいづることあり 斎藤茂吉『ともしび』短歌代表作品

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斎藤茂吉『ともしび』から主要な代表作の短歌の解説と観賞です。
このページは現代語訳付きの方です。語の注解と「茂吉秀歌」から佐藤佐太郎の解釈も併記します。

他にも佐藤佐太郎の「茂吉三十鑑賞」に佐太郎の抽出した『ともしび』の歌の詳しい解説と鑑賞がありますので、併せてご覧ください。

さ夜なかにめざむるときに物音(ものと)たえわれに涙(なみだ)のいづることあり

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さ夜なかにめざむるときに物音(ものと)たえわれに涙(なみだ)のいづることあり

歌の意味と現代語訳
夜更けにと目覚めて物音も途絶えた中に居て、ふと涙がわくことがある

出典
「ともしび」大正14年

歌の語句
さ夜中…「さ」は接頭語。漢字は「小夜中」
めざむる…目覚める
物音…音は「と」と読む。 他の用例:「物の音(と)もせず」
いづる…「出(い)づる」

表現技法
句切れなし
「たえて」となるべき「て」は省略
「われに」はやや俯瞰した言い方で、茂吉の歌には多くみられる

鑑賞と解釈

前までの歌「ひかりさす松山のべを越えしかば」に続いて、生家の隣にある近江番場蓮華寺に、郷里において交流があった窿応和尚を見舞った時の作品。

下の自註を読むと、幼少より親しんだ和尚の病の状態が良くなかったことがわかる。そもそもが火災の後で心が弱っていた時でもあり、茂吉には、母は既にないのであるから、変わっていく郷里の人の様子を見て、涙をもって子供の頃の回顧されたことが想像に難くない。

もっとも歌では、そのような背景をくどくどということなく、「さ夜なかにめざむるときに物音(ものと)たえ」と、単純化したものを置いている。あたかも「物音がない」ことが、「涙」を誘引したように詠まれているが、もちろん、そうではない。

引き起こしたものについては、そのように漠然とした雰囲気として示されており、引き起こされた結果が「われに涙(なみだ)のいづることあり」として、むしろ、郷里の寺においてという特定の状況をはずして、どこにでもある夜とその静けさとして、普遍の人の心の出来事としてまとめているところに特徴がある。

一連、いずれも、悲しくも美しい歌が並んでいる。幼少の茂吉の才に気がつき、東京に行かせるように計らったのも、和尚の口利きであった。

塚本邦雄は、この歌の「涙」を次のように

「真夜の泪は、もちろん、傍に眠る慈父さながらの窿応和尚ゆえに溢れるのであろうが、ひいては、山川草木の、晩春初夏の、かぐわしい息吹に触れ得て、東京での、あの修羅の巷の苦患から、たとえひと時でも救済されていることへの、感慨の涙ではあるまいか」

斎藤茂吉の自註

晩春私は近江番場蓮華寺に窿応和尚を見舞うた。大正10年春、長崎から帰郷の途に寄ったときには、まだ丈夫でおられたのが、今度は中風で伏して居られた。

和尚のことをおもい、私の少年の時のことをおもい、いろいろと連想が活発になってくるとつい涙が目にわくのであった。

佐藤佐太郎の評

単純化し、極限まで浄化して出来上がった一首である。何時、どこ、なぜ、というような条件もなくなって、ただ夜半に眼が醒めていると涙が湧いてくるといったに過ぎない。そして「ことあり」といって、やや普遍的な表現をしているために、同じ悲哀といっても澄んだ感じが伴っている。

また「ことあり」と抽象化した言い方をしながら、依然として作者の嘆声がこもっているのは「われに」という語がはいっているためである。「われに涙のいづることあり」という四五句は、抒情詩としての短歌の表現のあるべき姿を暗示しているといってもいいだろう。

いろいろなものを切り捨てるようにして単純にいっていながら、ただ「物音たえ」という具体だけをいったのが作歌の力量である。この三句がすべての重量をささえている。

「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

一連の歌

近江蓮華寺行

右中山道(なかせんだう)みちひだりながはま越前(ゑちぜん)みちとふ石じるしあはれ

山なかのみ寺しづかにゆふぐれて窿応上人(りゆうおうしやうにん)は病(や)みこやりたる

ひかりさす松山のべを越えしかば苔よりいづるみづを飲むなり

さ夜なかにめざむるときに物音(ものと)たえわれに涙(なみだ)のいづることあり

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