秋晴れの光となりて楽しくも実りに入らむ栗も胡桃も
斎藤茂吉の短歌を一首ずつ鑑賞、解説しています。
この記事は、『小園』から主要な代表作「秋晴れの光となりて」の短歌の解説と観賞です。
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斎藤茂吉の短歌
『小園』から主要な代表作短歌、秋晴れの光となりて楽しくも実りに入らむ栗も胡桃も の解説と鑑賞です。
語の注解と「茂吉秀歌」から佐藤佐太郎の解釈も併記します。
斎藤茂吉の生涯とその作品は 下の記事をご覧ください。
斎藤茂吉とは 日本を代表する歌人
秋晴れの光となりて楽しくも実りに入らむ栗も胡桃も
読み:あきばれの ひかりとなりて たのしくも みのりにいらん くりもくるみも
歌の意味
空の光も秋晴れになり、楽しいことに実りの季節に入っていくのだなあ 栗もくるみも
歌集 出典
『小園』
語句と文法
入らむ・・・「らむ」は未来の助動詞
表現技法
・4句切れ
・倒置法
「楽しくも」「栗も胡桃も」の「も」の音の連続や、「実りに入らむ栗も胡桃も」の「のり」「いら」「くり」「くる」のラ行の音の連続にも注意。
鑑賞と解釈
昭和20年4月からの山形県への疎開中に詠まれた歌で、故郷の田畑に秋の季節の到来を詠んだ「秋のみのり」と題する一連の中の一首。
終戦と疎開 一首の背景
終戦はこの年の8月であり、戦後の初めての秋の到来で、「楽しくも」と静かな充足を予感させるものとなっているが、この前の一連の中には「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」との沈痛な歌も含まれており、作者にとっては苦難の時代であった。
作者茂吉は、戦争を奨励する歌を書いたことで、老いた身で家族を離れて一人疎開を続けており、苦境の中で敗戦を迎えた。
失意の中で、東京を遠く離れた田舎の田園で素朴な美しいものを歌に写し取ることで、何とか自分の魂を再生させようとするかのような歌は、秋という季節の静まりと相まって痛ましくも美しいものがある。
この歌の後には、「灰塵の中より吾もフェニキスとなりてし飛ばむ小さけれども」というのがあり、このフェニキスが作者の分身であると同時に、「栗や胡桃」の小さき者共も、作者の魂の再生の萌芽であろう。
一首の鑑賞
「秋晴れの光となりて楽しくも実りに入らむ栗も胡桃も」
あきばれの ひかりとなりて たのしくも みのりにいらん くりもくるみも
歌の表現としては、「秋晴れの光となりて」秋の到来を具体的に感得するべき対象物を描写し、「なりて」でそれまでの時間の経過を織り込んでいる。
さらに、作者自身の楽しむべき気持ちを、率直に「楽しくも」と表している。
この「楽しくも」の主語は、倒置で結句に来ている栗や胡桃となっている。
その場合でももちろん、詠んでいる人である作者の心境には違いないのだが、むしろ、作者の沈んだ気持ちが、実っていく果実に同期して「楽しくも」になるような、対象物と不可分のところがある。
これは、よく言われる斎藤茂吉の歌の特徴でもあるだろう。もう少しいうと、その辺りが定義が難しい「実相観入」ということになりそうだ。
「実りに入る」の表現
そのあとは、実るのではなくて「実りに入る」という、これも未来を強く強調する表現となっている。
そして、対象物がこれから実って太っていく、ということだけではなしに、作者自身もまた、そのような時の流れの中にあることを伝えている。
作者にとっては、それが戦後の到来であり、そのようないまだ結実には至らない時間があって、ようやく「実りに入らむ」というのは、実は、作者の実感でもあり、それが栗の実りと一体化しているのだろう。
ただし間違えたくないのは、作者が目の前の対象物に同期をしているのではない。作者がそれらの栗や胡桃の対象物を使って、歌の中に、歌の時間と歌のシチュエーションを新たに作り出しているということなのである。
アララギ派の写生というのは、よく外のものを描写することのように誤解されがちであるが、そうではない。言ってみれば、栗や胡桃は楽しくもないし、毎年実るものであり、今年特別に実ったわけでもない。
毎年同じことが自然の摂理で繰り返されているのは間違いないにも関わらず、この時にだけ栗や胡桃が楽しくも実るように思えるのはなぜだろうか。
それは、他でもない、その実りが特別であると思う時期の作者があり、その作者がそれを「歌に詠んだから」である。
詩歌に詠まれないものは、”そこ”にはない。詠まれて初めて、そこに、この世の中に現れる。
そうして美しくも作者が選び出したものに、文字通り秋晴れの「光」が当たっている。あたかもスポットライトのように。
毎年変わらずも起こる自然の営みがこうして、特別なものとなったのは、それを歌に詠むことで作者が新たな意味づけをそこに与えたからなのである。
佐藤佐太郎の『小園』評
佐藤佐太郎は、この歌集『小園』について、「真実」を強調し、次のように言っている。
端的に言えば『小園』にしても、『白き山』にしても恐ろしいまで真実に徹したものであり、そこから限りない生気と重量とが感ぜられるのである。
佐藤佐太郎は、斎藤茂吉の最高峰と言われている『白き山』同様、こちらの苦悩に満ちた『小園』も高く評価している。
一連の歌
稲を刈る鎌音きけばさやけくも聞こゆるものか朝まだきより
ものなべてしづかならむと山かひの川原の砂に秋の陽のさす
この国の空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね
秋晴れの光となりて楽しくも実りに入らむ栗も胡桃も
--『小園』