斎藤茂吉

斎藤茂吉の家系図と家族 両親と養父母、子孫について

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斎藤茂吉は、日本を代表するアララギ派の歌人です。

斎藤茂吉の家族には、作歌の北杜夫さんがいることが知られています。

斎藤茂吉の家系図と家族についてお知らせします。

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斎藤茂吉の年譜概略

斎藤茂吉の家計と家族に関わる年譜の概略です。

斎藤茂吉(1882-1953)

明治15年5月14日 山形県南村山郡金瓶村(現 上山市)生まれ。

明治29年 上京して開成中学に入学。実質的に斎藤家に養子に入る

明治39年 第一高等学校で勉学の傍ら、正岡子規の影響を受け、作歌を志す。

明治39年 東京帝国大学医科大学時代、伊藤左千夫に師事。「アララギ」創刊とともに同人となる。

大正2年 斎藤家の次女てる子と結婚。長男茂太が誕生。

同年、処女歌集「赤光」を発刊。以降、次々と歌集を刊行し、日本を代表する歌人といわれるようになる。

 

斎藤茂吉の作品と生涯については
斎藤茂吉の作品と生涯斎藤茂吉の作品と生涯 特徴や作風「写生と実相観入」

 

斎藤茂吉の家系図と家族

斎藤茂吉の家系図と家族についてです。

斎藤茂吉の家系図

斎藤茂吉は、旧姓は、斎藤姓ではなく、「守谷(もりや)」というのが元々の名前です。

 

斎藤茂吉の両親と兄弟

斎藤茂吉の主に両親と兄弟についてです。

斎藤茂吉の両親 熊次郎といくについて

斎藤茂吉の父は 守谷伝右衛門熊次郎(もりやでんえもんくまじろう)、母 いく

茂吉の母、守谷家のいくは、守谷の家を継ぎ、父、熊次郎は婿養子として守谷性を名乗ります。

「中農」ということですので、それなりに大きい農家であったようです。

「死にたまふ母」のモデルとなった母いく

この母いくが、斎藤茂吉の代表作「死にたまふ母」に詠まれた母です。

母の歌は、「死にたまふ母」だけでも59首ありますが、父の歌は、逝去時に数首が残されていますが、母の歌に比べるとかずはごく僅かです。

斎藤茂吉の父方の祖父に当たる金沢治郎左衛門は、短歌を詠む、地方の歌詠みであり、作品の短歌も金沢家に残されています。

伯母ひでは歌集「あらたま】代表作の祖母

斎藤茂吉の父熊次郎の姉のひでは、斎藤茂吉の第二歌集『あらたま』に詠まれている「祖母」です。

血縁関係を言うと伯母でありながら、茂吉はひでに育てられたこともあり、「祖母(おほはは)」として、短歌に登場させています。

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斎藤茂吉の兄弟

斎藤茂吉の兄弟は全部で5人、茂吉は3男に当たります。

守谷家長男 広吉

守谷家の長男、広吉は、日露戦争に従軍。

黒溝台会戦(1905年1月25日~29日)と、その後の奉天会戦(同年3月1日~10日)に参加しましたが負傷して帰国しています。

赤光」の最初の方に詠まれている「兄」と兄を思う母の短歌の「兄」は主に広吉であり、他に「黒溝台」が詠まれた歌もあります。

斎藤茂吉の次兄 守屋富太郎

富太郎は、茂吉と親しかったようで、東京から茂吉は富太郎に手紙で短歌を書き送っています。

また、後に富太郎も短歌を嗜むようになり、アララギにも561首を投稿、茂吉が歌を選んだりもしています。

さらに、富太郎の職業についても、茂吉が助言をし、富太郎は医師となり、北海道の偏地で勤務する医師となって活躍しました。

茂吉は、下の高橋四郎兵衛と共に、北海道似兄を訪ねています。

斎藤茂吉の弟 高橋四郎兵衛

斎藤茂吉の弟、守谷なお吉は、結婚後高橋性を名乗り、名前も高橋四郎兵衛となりました。

「死にたまふ母」その他の短歌にも「弟」として登場しています。

兄である茂吉を尊敬し、昭和9年に蔵王に歌碑を建立しています。

他にも、妻てる子のダンスホール事件の折にも、てる子を家に預かるなど、兄を助けながら、茂吉と途切れずに交流がありました。

斎藤茂吉の妹 高橋なを

斎藤茂吉の妹なをは、茂吉の9再年下で、斎藤茂吉が戦中と戦後に上山に疎開した時に、なをの嫁ぎ先である斎藤十右衛門宅に滞在しています。

 

 

斎藤茂吉の養子先斎藤家とその病院

もう一つ、斎藤茂吉の実の両親以上に、斎藤茂吉の人生や生き方を決めたのが、茂吉が養子に入った先の斎藤家の両親です。

守谷家とのつながり

守谷家と斎藤家との血縁関係は、最初の家系図の「ちん」という人が、斎藤茂吉の母方の祖母で、ちんが、斎藤茂吉の養父斎藤紀一の祖父と結婚しています。

その縁で、親戚でもある茂吉を養子に迎えやすかったとみえます。

蔵王温泉わかまつや

また、斎藤家の斎藤紀一の姉、「わか」は、斎藤長右衛門(蔵王温泉わかまつや館主)に嫁いでおり、わかまつやは、斎藤茂吉も利用したゆかりの宿となっています。

斎藤茂吉の養父 斎藤紀一

斎藤紀一は、本名は紀一郎、明治32年に紀一と改名。

これには、斎藤茂吉の養母ひさとの前に婚約をしていた女性と裁判になったことも若干関係しているようです。

明治23年に浅草に医院を開業。長女、次女と男児に恵まれなかったことから、斎藤茂吉を次女の婿候補として養子に迎えました。

その後、病院は、本院、分院と拡大。紀一は明治35年似ドイツ留学を果たし、帰国後、後に建設した青山脳病院は、ローマ建築のギリシャ神殿を思わせるような作りの建物で、広大な敷地に、精神病の患者400名を収容、日本一の精神病院といわれました。

茂吉はそこの精神科医として立つこととなり、後に院長に就任することとなったのです。

この養父の成功が、斎藤茂吉の生涯を決めたと言ってもいいでしょう。

 

斎藤茂吉の妻てる子

斎藤紀一の次女がてる子であり、それが斎藤茂吉の結婚した相手です。

てる子とは決して、中の良い夫婦とは言えませんでした、その夫婦関係の相克が、斎藤茂吉の短歌に大きく反映しています。

妻てる子については、下の記事に詳しくご紹介しています。

斎藤茂吉の子孫について

斎藤茂吉とてる子の間には、子供が4人います。

次男の宗吉というのが、作家の北杜夫です。

北杜夫氏の娘さんが、エッセイストの斎藤由香さん。由香さんからみて祖母に当たるてる子さんを題材に本を書いています。

長男の斎藤茂太は「モタさん」の相性で親しまれている、精神科医・エッセイストです。

晩年の茂吉は、孫と散歩をすることを楽しみとしていたといわれます。子どものときの茂太と孫の茂一を詠んだ歌もそれぞれ残っています。

ちなみに、男性は茂太氏と茂吉の孫ともに精神科医となって、祖父紀一の残した病院を継いでいます。

以上斎藤茂吉の家系図と家族についてご紹介しました。







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