斎藤茂吉の命日、茂吉忌日は、2月25日です。
日本の代表的な歌人である斎藤茂吉の逝去に際し、多くの歌人が挽歌を詠みました。
斎藤茂吉の逝去を悼む挽歌をご紹介します。
斎藤茂吉の挽歌
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斎藤茂吉が亡くなったのは、1953年(昭和28年)、享年70歳でした。
今からしたら、まだまだ早いと言えるかもしれません。
亡くなった原因は心臓喘息ということでしたが、その前に脳梗塞を発症するなどして、身体が弱っていたといわれています。
息子の、斎藤茂太さんら家族に手厚く看取られてのち世を去りました。
『赤光』で歌壇に登場
斎藤茂吉は、処女歌集『赤光』が歌壇のみならず、文壇からも注目を受けました。
以後もアララギ派の歌人として活躍、生涯で1万8千首を詠んだと言われます。
職業は精神科医として、大病院の院長を務めました。常に忙しく、また病院が火災で全焼したこともあり、経営には苦労をしたようです。
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斎藤茂吉の代表作について
斎藤茂吉の代表作は「死にたまふ母」と言われています。
歌集の最も有名なものは、『赤光』そして「白き山」が挙げられます。
斎藤茂吉の挽歌
斎藤茂吉と交流した歌人、教え子たちの挽歌をあげておきます。
みいのちは今日過ぎたまひ現身(うつしみ)の口いづるこゑを聴くこともなし
しづかにてありのままなる晩年の時すぎしかばみ命終る
健かにいましたまひて火のごとく言葉かがよひし頃をぞ思ふ
かなしみをうちに湛へし一生にて過ぎしをぞ思ふおほけなけれど
作者:佐藤佐太郎
佐藤佐太郎は、斎藤茂吉の弟子だった人です。茂吉の作品の詳細な解説を記しています。
「おほけなけれど」は「おそれ多い、身の程知らずに」の意味で、佐太郎の茂吉を尊敬する気持ちが表れています。
雪しろの はるかに来たる川上を 見つつおもへり。斎藤茂吉
作者:釈超空
作者は、斎藤茂吉と同じく、アララギの同人でした。
強羅(がうら)のやま君とのぼりて秋の夜の虹のさやけき見しを忘れず
作者:山口茂吉
強羅(ごうら)は、茂吉の山荘のあったところ。
山口茂吉は弟子の一人です。
物の芽の萌ゆらむとして降る雪にすはれてゆきし大きみいのち 悼茂吉
作者:津田治子
ハンセン病の歌人津田治子はアララギに参加。茂吉を敬愛し、療養所で歌を詠みました。
近づけぬ近づき難きありかたも或る日思へばしをしをとして
死後のことなど語り合ひたる記憶なく漠々(ばくばく)として相さかりゆく
作者:土屋文明
土屋文明は同じアララギの同年代の歌人です。
土屋文明は100歳で亡くなりました。
近く居て吾は聞きにき助詞一つ苦しみ考ふる君が息づき
作者:五味保義
五味保義は、同じくアララギの歌人です。
あかつきに鳴くひぐらしのあはれさも君に承(う)けにし一つと思ふ
手をとれば痛しと君は言ひましきわれの見(まみ)えしをはりなりけり
作者:柴生田稔
柴生田稔もアララギの歌人で、斎藤茂吉の弟子の一人として、茂吉の仕事を手伝いました。
終りに
斎藤茂吉の出現は、近代短歌のみならず、アララギはもちろんのこと文学界全体に大きな影響を与えました。
70歳での逝去は歌人としてはまだまだ惜しまれるところであったでしょうが、斎藤茂吉の作品は、現代に至っても色あせることはありません。
これからも広く読み継がれていくことを祈っています。