森鴎外は斎藤茂吉とも親交があった文学者です。また、森鴎外も医師であったことから、精神科医であった斎藤茂吉は鴎外を尊敬していたとも伝えられています。
斎藤茂吉と森鴎外との関わりについてお知らせします。
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短歌を好んで詠んだ森鴎外
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森鴎外と斎藤茂吉の接点の一番は、まず、森鴎外が短歌を詠んだということです。
自分で短歌を読むだけではなく観潮楼歌会という歌会を主催、伊藤左千夫など他のメンバーとともに、斎藤茂吉がその歌会に参加をしたことが、鴎外と茂吉の最初の接点であったと思われます 。
森鴎外の短歌
をさな子の片手して弾くピアノをも聞きていささか楽む我は
うまいより呼び醒まされし人のごと丸き目をあき我を見つむる
み心はいまだおちゐず蜂去りてコスモスの茎莖ゆらめく如く
狂ほしき考浮ぶ夜の町にふと燃え出づる火事のごとくに
森鴎外 観潮楼歌会のいきさつ
伊藤左千夫が最初に森鴎外の歌会に参加をしたのは明治38年の1月のことでした。
団子坂の観潮楼(かんちょうろう)とは、鴎外が30歳から60歳で亡くなるまで、家族とともに住んだ家です。
そこに森鴎外を訪れた伊藤左千夫は、佐々木信綱や、与謝野鉄幹らと毎月会合を開いて短歌の作品を持ち寄り、批評し合う会にしてはどうかと森鴎外に提案。
森鴎外としては最初から歌会とするつもりはなく、当初の考えとしては下のようなものでした。
「その頃あららぎと明星とが参商(しんしょう)の如くに相隔たっているのを見て、私は二つのものを接近せしめようと思って、観潮桜に請待した」(森鴎外 大正4年 「沙羅の木」序)
両派の接見の機会のように考えていたようですが、左千夫の提案で、他にも平野萬里、上田敏、石川啄木らが参加する、月に一度の歌会となったのです。(『白き瓶』藤沢周平著)
斎藤茂吉も森鴎外の歌会に
斎藤茂吉は左千夫に連れられてその会に参加。
森鴎外や上田敏ら、知識人の文学をめぐる会話に耳を傾けました。鴎外や上田敏は専門歌人ではありませんでしたが、アララギの師伊藤左千夫や長塚節よりも教養の深い人たちでした。
留学経験もありドイツ文学にも精通している森鴎外や、フランス語の詩の翻訳で名を知られている上田敏との会話は、茂吉の知的好奇心を大いに満たしたに違いありません。
ドイツに留学した森鴎外と茂吉
もうひとつ、鴎外と茂吉との接点は、職業が同じ医師であったという点です。
斎藤茂吉は後にドイツ・オーストリアに念願の留学を果たしますが、森鴎外は、それより37年前にミュンヘン大学に留学をしています。
その時の留学中の事件を元に記したのが『うたかたの記』でその中に書かれた「カフェー・ミネルヴァ」を、 MOKICHI は自身の留学中に訪ねその短歌を読んでもいます。
Cafe Minervaのことたづねむと大学の裏幾度か往反(ゆきき)す
そして、森鴎外の逝去を知ったのは、茂吉がベルリンの日本大使館にいた時でした。
石としても文学者としても尊敬する森鴎外37年遅れてやっとドイツ留学を果たした茂吉がその地で知ったことは、意外にも森鴎外の死の報でした。
「私はあまり意外なことなのでしばらく呆然として居った」
そして、伯林の下宿に居るはずの鴎外の長男 森於菟(おと)を訪ねますが、あいにく避暑に出掛けて留守であり、会えなかったと茂吉が記しています。
森鴎外の挽歌
その時の斎藤茂吉の森鴎外の挽歌、
伯林にようやく着けば森鴎外先生の死を知りて寂しさ堪へがたし
帰りゆかば心おごりて告げまゐらせむ事多(ことさは)なるに君はいまさず
斎藤茂吉と森鴎外の意外な共通項と接点、森鴎外のおかげで、この会で茂吉は多くの知己と知識を経て、自らの歌の世界を広げていったのです。