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伊藤左千夫は斎藤茂吉の短歌の師 アララギ歌人を育てた業績

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伊藤左千夫は斎藤茂吉の短歌の師、先生にあたります。

7月30日、左千夫忌の日めくり短歌は、伊藤左千夫と斎藤茂吉とアララギの他の歌人、関わりと交流について記します。

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伊藤左千夫と斎藤茂吉

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伊藤左千夫は、斎藤茂吉よりも、18歳年上の1864年生まれ。長塚節らと共に正岡子規に短歌を学びました。

正岡子規の短歌に感銘を受けて短歌を志した茂吉は、子規系の歌誌『馬酔木(あしび)』を購読、『読売新聞』に投稿していました。

その折、斎藤茂吉は短歌のことで友人と論争になり、伊藤左千夫に質問の手紙を送ったのが、交流のきっかけとなりました。

手紙のやり取り中に、茂吉が書き添えた自作の短歌5首を、06年2月『馬酔木』に伊藤左千夫が掲載。

その折に掲載された短歌は

蚕(こ)の部屋(へや)に放ちし蛍あかねさす昼なりしかば首すぢあかし
蚊帳のなかに放ちし蛍夕(ゆふ)さればおのれ光りて飛びそめにけり
あかときの草の露玉(つゆたま)七いろにかがやきわたり蜻蛉(あきつ)うまれぬ
あかときの草に生(うま)れて蜻蛉(あきつ)はも未(いま)だ軟(やは)らかみ飛びがてぬかも
小田(をだ)のみち赤羅(あから)ひく日はのぼりつつ生(うま)れし蜻蛉(あきつ)もかがやきにけり
『赤光』作品一覧

 

伊藤左千夫の第一印象

手紙に記された左千夫の「遊びに来るように」との言葉に応えて、斎藤茂吉は初めて伊藤左千夫を訪ねます。

最初に会った時の印象は、「田舎の翁のようで、ちっとも偉そうなところがなかった」と茂吉が後に書いています。

入門後、伊藤左千夫は茂吉のこのころの空想的な傾向を同門の堀内卓と対比して「堀内は写実派、斎藤は理想派」と評しました。

また、具体的には、「君は部分に興味を持ちすぎるね」「あんまり言葉に興味を持ちすぎるね」と指摘。

茂吉の空想的傾向を戒めたといいます。

斎藤茂吉の空想的傾向

その頃の茂吉の短歌で、空想的とされたものは例えば下のようなものであったと推察できます。

とほ世べの恋のあはれをこほろぎの語(かた)り部(べ)が夜々つぎかたりけり

月落ちてさ夜ほの暗く未だかも弥勒(みろく)は出でず虫鳴けるかも

ヨルダンの河のほとりに虫鳴くと書(ふみ)に残りて年ふりにけり

この中の歌は、元は「現しき世月読や落ち」となっており、それを伊藤左千夫が「月落ちてさ夜ほの暗く」と添削の上、掲載されました。

 

斎藤茂吉は、左千夫の指導を受けたことに、

「左千夫先生の門人でよかった。鉄幹の門人にでもなったら、どうなっていたことだろう」(土屋文明『伊藤左千夫』)

と漏らしたといいますので、伊藤左千夫に師事したことを心より喜んでいた様子がうかがえます。

伊藤左千夫に弟子が反目 アララギ解散の危機

しかし、一時期は歌論の違いから、斎藤茂吉を含む弟子たちと、伊藤左千夫の間には反目が生まれてしまうことになります。

原因は、森鴎外主催の観潮楼歌会をはじめとして、アララギ以外の派の短歌にも接することが多くなった弟子たちが新しい作風を追求、島木赤彦他の同年代の同人が結束したために、一時はアララギの解散の話まででたようです。

大正2年には、斎藤茂吉の作品に次のようなものがみられます

わがいのち芝居(しばゐ)に似ると云はれたり云ひたるをとこ肥りゐるかも

「わがいのち」というのは、これは、茂吉が心を込めて詠んだ自らの歌のことで、それを伊藤左千夫が「芝居」と評したことに、強い反発を感じた茂吉が詠んだ歌です。

伊藤左千夫は太っていたので、誰がそう言ったのかは、同人にはわかるという、揶揄と当てつけを含む歌です。

このような歌を堂々と登校するまでに、アララギ内の空気は荒んでしまっていたのです。

「寂滅の光」に感銘を受けた斎藤茂吉

結局、皆が左千夫の言質を無視するようになり、左千夫がアララギの選歌を退くという形で、アララギは安定を取り戻しました。

そんな中でも、伊藤左千夫投稿の「寂滅の光」一連に、斎藤茂吉は感銘を受けて、直ちに左千夫を訪問、「絶賛して敬礼し叩頭した」と伝えられています。

伊藤左千夫が急逝

しかし、そうなったところで、伊藤左千夫が大正二年七月、脳溢血で急逝するという事態に見舞われたのでした。

まだ50歳でしたので、誰もが予期しない突然のことでした。

茂吉は、その折「悲報来」を発表。初版『赤光』の巻頭を飾ったのがこれらの歌でした。

ひた走るわが道暗ししんしんと怺へかねたるわが道くらし

死にせれば人は居(い)ぬかなと歎(なげ)かひて眠り薬をのみて寝んとす

赤彦(あかひこ)と赤彦が妻吾(あ)に寝よと蚤とり粉(こな)を呉れにけらずや

と、その時の驚いて師の元へ駆けつける途中の様子を詠んでいます。

左千夫のそばで泣いていたのは土屋文明、また、伊藤左千夫への尊敬を深く持っていた古泉千樫は、それまでも決して批判を述べなかったと伝えられています。

その他の弟子たちはただ呆然とするばかりでした。

しかし、アララギでは、その後伊藤左千夫の作品の再評価が行われ、弟子たちも、左千夫の死後は、師の良さを再び認めるようになります。

伊藤左千夫は、生前には歌集を発行していなかったので、土屋文明らが中心となり、伊藤左千夫の作品を歌集にまとめています。

下は、左千夫の墓に初めて詣でた折の歌。

ひつそりと心なやみて水かくる松葉ぼたんはきのふ植ゑにし

しらじらと水のなかよりふふみたる水ぐさの花小さかりけり (八月作)

 

正岡子規の後。「阿羅々木」を創刊、その後のアララギ派の基礎を作ったのが、伊藤左千夫の大きな功績です。

斎藤茂吉、島木赤彦、古泉千樫、中村憲吉らは皆伊藤左千夫の元で歌人として大きく成長していったのです。




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