斎藤茂吉は玉音放送を詠んだ短歌の他、終戦の日にも心境を表す歌をよんでいます。
斎藤茂吉は、終戦をどのように受け止めたのか、短歌と茂吉自身の記述から探ります。
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戦争中の斎藤茂吉
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斎藤茂吉は、戦争がはじまると戦争を詠んだ短歌を発表したのはもちろん、求めに応じて戦争の短歌を制作しました。
斎藤茂吉の戦争詠
以下は、『寒雲』より、志那事変に際し詠んだ歌、
よこしまに何ものかある国こぞる一ついきほひのまへ何なる
あな清し敵前渡河(てきぜんとか)の写真見れば皆死をを決してたふさぎひとつ
上海線の部隊おもへば炎だつ心となりて今夜(こよひ)ねむれず
おびただしき軍馬上陸のさまを見て私の熱き涙せきあへず
かたまりて兵発つ後ろを幾つかの屍運ぶがおぼろに過ぎつ
いのち死にして臣もののふにかしきこやすめらみことは額ふしたまふ
われ遂にこの戦に生きあひておごそかに幸のかぎりとぞせむ
斎藤茂吉自身は後書きで 下のように述べています。
昭和12年に支那事変が起こり、私は事変に感動した歌をいちはやく作っているのを異なった点としてもかまはぬようである
しかし、終戦後にこれらの短歌を振り返って
死骸の如き歌累々とよこたはるいたしかたなく作れるものぞ
と詠み、これらの短歌を否定するに至っています。
斎藤茂吉は故郷の山形県に疎開、その後、その地で終戦を迎えることとなります。
斎藤茂吉の終戦の短歌
終戦の日には、天皇陛下の放送、玉音放送があり、それによって、斎藤茂吉も終戦を知ることとなります。
その時の短歌
新島ゆ疎開せる翁(おう)とつれだちて天皇のみこゑききたてまつる
この歌においては、ただその事実のみを述べています。
しかし、その次の歌、
くれなゐの血潮の涙はふるともこの悲しみを遣らふ術なし
終戦にともなう、強い悲しみが表現されています。
もろもろのさやぎさもあらばあれ今ゆのち大土のごとわれは黙さむ
この結句が、後の秀歌、「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」「くやしまむ言も絶えたり爐のなかに炎のあそぶ冬のゆふぐれ」につながると思われます。
斎藤茂吉の終戦の日の回想
斎藤茂吉の終戦の日の回想によると
八月十五日には終戦になった。その少し前、神町というところの飛行場を襲う編隊の通るのは、金瓶と蔵王山の間ぐらいの上空であった。その時に村では半鐘を鳴らしたが、万事が過ぎ去ってしまった。
その後は、斎藤茂吉は、自らの詠んだ「愛国短歌」が戦争に協力したとみなされて、その責任を問われることとなりました。
そのため、それらの声を恐れて、戦後も山形での疎開生活を続けることとなりましたが、その間にも多くの秀歌を含む歌が詠まれていったのです。
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