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隣室に人は死ねどもひたぶるに箒ぐさの実食ひたかりけり/斎藤茂吉『赤光』

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隣室に人は死ねどもひたぶるに箒ぐさの実食ひたかりけり

斎藤茂吉『赤光』から主要な代表歌の解説と観賞です。
このページは現代語訳付きの方です。

斎藤茂吉『赤光』から主要な代表歌の解説と観賞を一首ずつ記します。このページは現代語訳付きの方です。

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斎藤茂吉の短歌記事案内

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※斎藤茂吉の生涯と、折々の代表作短歌は下の記事に時間順に配列しています。

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隣室に人は死ねどもひたぶるに箒ぐさの実食ひたかりけり

(読み)りんしつに ひとはしねども ひたぶるに ほうきぐさのみ くいたかりけり

 

 歌の意味と現代語訳

以下にポイントをあげます

【現代語訳】

隣の病室で患者である人が死んだけれども、隣り合わせの部屋にいる私はホウキグサの実が無性に食べたいものだ。

出典

『赤光』分病室

歌の語句

ひたぶるに・・・いちずに。ひたすらに。
箒ぐさ、ホウキグサとは今のコキアのことで、秋になると赤く紅葉する。実は秋田県でトンブリと呼ばれる食材になる。

 鑑賞と解釈

作者が腸チフスで入院した折の歌で、周りが死を案じるほど、一時病状は重かったらしい。

隣の病室にいる人は亡くなったが、作者は回復し、生きる証のように食欲を覚える。生と死の対比が歌の主題。
なお、箒草を見たことがある人は、それが深紅になった様子を思い浮かべることができるだろう。その色もまた命の象徴だろう。

以下、佐藤佐太郎の解説。

「隣室の死と箒ぐさの実との対照そのものが人世(ママ)の深刻な一つのすがたでもあり、そこに感動があって「食ひたかりけり」と詠嘆したのである。(佐藤佐太郎「茂吉秀歌」)

 

生死の間に漂流するような緊迫の中で、ただひたすら食物のことを思うといういつわりのない人間感情の動きである。そして、素朴な「箒ぐさの実」を思っているところが切実でもあり、新鮮でもある。この歌にはまた自分の生命に対する愛惜の情がにじんでいる。

こうしたところが『赤光』の底流であるわけである。(佐藤佐太郎 岩波書店「斎藤茂吉選集1」解説より抜粋)

 

次の歌


細みづにながるる砂の片寄りに静まるほどのうれひなりけり

 

現代語訳


細い水の流れにさえ流されず、流れの端に静かに淀んで残る細かい砂、 その位の静かでかすかな憂いがある

出典

赤光」明治43年 2をさな妻

歌の語句

ながるる・・・流れるの連体形

表現技法

一句から四句までが「うれひ」にかかる形容詞句。「うれひなりけり」の述部のみの序歌に似た構成。

解釈と鑑賞

構成が変わっており、感傷的な感じの歌。
同じ家に住みながら、まだ触れることもできないをさな妻への恋慕とつながりがあるのだろう。

私の少女に対する「憂い」も所詮この砂の流れの停滞から起こる「うれい」にかようものではなかろうかと思った時、そこに淡い慰謝があった。「自歌一首」 斎藤茂吉

佐藤佐太郎の評

細い水の流れがあり、流れに従って細かい砂が動いているが、砂はしばらくすると一方に偏ってそこに停滞する。この小さな停滞の一種もどかしいような状態は、さながら自分のうちにある「うれひ」だという歌である。
一句から四句までは「うれひ」を形容する序のようにも受けとれるが、作者みずからいうように、従来の序歌の形式と違って、現前の状況そのものから触発された情調を表現しているのである。(佐藤佐太郎「茂吉秀歌」)

 

こういう微細な心理の動き、微細な事象の中にある真実の発見は茂吉の天分によっているが、明治四十二年以来、森鴎外の観潮楼歌会に出席したりして、広く文芸芸術の世界に目を開いた結果でもある。あるときは切実に、強烈に、ある時は太く大きく、またあるときは微かに、鋭く、すべて生に即して直接に詠嘆しようとしたので、これが抒情詩としての短歌だという自覚がこのころすでにできていた。(佐藤佐太郎 岩波書店「斎藤茂吉選集1」解説より抜粋)

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