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この夜は鳥獣魚介もしづかなれ未練もちてか行きかく行くわれも『あらたま』斎藤茂吉

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この夜は鳥獣魚介もしづかなれ未練もちてか行きかく行くわれも は斎藤茂吉の第二歌集『あらたま』の代表的な短歌作品の一つ。

斎藤茂吉『あらたま』からの短歌代表作の解説と観賞のポイントを記します。

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斎藤茂吉の作品案内

この歌の掲載されている歌集『あらたま』一覧は 『あらたま』斎藤茂吉短歌一覧 現代語訳付き解説と鑑賞  にあります。

※斎藤茂吉の生涯と代表作短歌は下の記事に時間順に配列しています。

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この夜は鳥獣魚介もしづかなれ未練もちてか行きかく行くわれも

歌の意味と現代語訳
この夜更けは鳥獣魚介何ものも静かに居よ。諦めきれずに未練をもって彷徨する自分も静かにあれ



出典

『あらたま』大正3年 4 諦念

歌の語句

鳥獣魚介・・・鳥、獣、魚、貝のことだが、すべての生きもの、万物の意味

なれ・・・「なり」の命令形

か行きかく行く・・・万葉集の柿本人麻呂「夕星(ゆうづづ)のか行きかく行き大船のたゆたふ見れば慰もる心もあらず」にある成句


表現技法


4句が6音で字足らず 以下 7音+3音
意図しての破調と思われる

鑑賞と解釈


『あらたま』を貫く「諦念」のテーマ


この一連のタイトルは「諦念」というものだが、むしろ諦めようとして諦められない自らの有りようを表していると言ってよい。

この歌においては、むしろ自らの心の落ち着きのなさを、引き合いに出した「鳥獣魚介」という自分以外のすべてのものの属性として暗示するところから始まる。

そして騒いでいる昼間の獣たちに「夜」という条件を与えて、「静まれ」というが、それもまた自分の心に対して願うものなのであり、そのように自らの心が客体としてとらえられているところにも、視点の特異さが見られるだろう。

「未練持ちて」には、実際の人物「おひろ」のような対象を挙げる人もいる。その理由として、結婚や留学の計画が進んでいたことなどから実生活が充実していた時期と見る向きがあるが、歌を見る限りでは、しきりに「諦め」を自らに言い聞かせようとする作者がおり、それは「おひろ」への思慕というようなことではないと思われる。

茂吉の心を悩ませていたのは、むしろ目の前の実質的な不満、待ち望んでいた結婚が茂吉の思い描いていたようなものではなかったことに因する。
茂吉の生涯はこの決められた伴侶との不和の不幸の中にあったと言ってもいい。

しかし、そのような、むしろ実体のない孤独と苦悩はこの時期の歌に不思議な精彩を与えている。

なお、同じ種類の歌として、塚本は『赤光』の「月落ちてさ夜ほの暗く未だかも弥勒は出でず蟲鳴けるかも」を同じ系譜の歌として挙げている。

 

佐藤佐太郎の鑑賞と解釈

「鳥獣魚介」は鳥類獣類魚類貝類で、やがて森羅万象の意におちつく。「しづかなれ」の「なれ」は、命令、希求である。「か行きかく行く」はあちらに行きこちらに行き、つまり彷徨である。

事件的背景というものがないのは、『赤光』の境地と違うところで、それだけ純一で深くなっていると言っていいだろう。「鳥獣魚介(てうじうぎょかい)もしづかなれ」という句など、宗教的といってよいほどしずかに沁み徹る語気である。
「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

一連の歌

4 諦念
橡(とち)の太樹(ふとき)をいま吹きとほる五月(さつき)かぜ嫩葉(わかば)たふとく諸向(もろむ)きにけり
朝風の流るるまにま橡の樹の嫩葉ひたむきになびき伏すはや
朝ゆけば朝森うごき夕くれば夕森うごく見とも悔いめや
しまし我は目をつむりなむ真日おちって鴉ねむりに行くこゑきこゆ
この夜は鳥獣魚介もしづかなれ未練もちてか行きかく行くわれも
あきらめに色なありそとぬば玉の小夜なかにして目ざめかなしむ
この朝明(あさけ)ひた急ぐ土の土竜(もぐらもち)かなしきものを我見たりけり
豚の子と軍鶏(しゃも)ともの食ふところなり我が魂ももとほるところ

 

*この歌の次の歌

ひさかたのしぐれふりくる空さびし土に下りたちて鴉は啼くも

 

歌の意味と現代語訳
時雨の降ってくる空が寂しい。だから土に降りてきて鴉は鳴くのだよ

出典
『あらたま』大正3年 13 時雨

歌の語句
ひさかたの・・・天に関係のある「天」「空」「雨」「月」「月夜」「日」「昼」「雲」「雪」「あられ」などにかかる枕詞。
参考:久かたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ(百人一首)

時雨・・・秋の末から冬の初めごろに、降ったりやんだりする小雨をいう
下りたいて・・・下り立つ
もは詠嘆の助動詞。「~であることよ」

表現技法
三句切れ

鑑賞と解釈

上句と下句には意味上のつながりがあり、「空が寂しいので」という鴉の心を代弁しているのだが、もちろんは、それは鴉ではなく、作者の心持ちである。
その気持ちを反映させる光景を選択して、その「実景」を描写することで表している。

実相観入

作者が後年言った「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」実相観入とは、表面的な写生にとどまらず、対象に自己を投入して、自己と対象とが一つになった世界を具象的に写すということだった。
この歌は地味な歌に見えるが、作者の歩みを伝えてもいるだろう。

的確な鴉の描写

「空」のさびしさは、ひとつは「時雨が降る」ということであるが、それをもっと強く表しているのは、鴉の動作である。
鴉が土の上に単に「居る」のではない。空が寂しいがゆえに下りてきて、さらに鳴いてその寂しさを訴える。

下に佐太郎の言う芭蕉の「枯れ枝に鳥のとまりけり秋の暮」との比較はそこだろう。芭蕉の「鳥」はただそこにあるだけであって、何かを感じているのは作者である。

対して茂吉の鴉は、鴉があたかも何かを感じているかのように、作者の心持と不可分のものとして描かれている。
作者本人が「『草づたふ朝の蛍よ』とも違う」と言うのもそこだろう。

 

梁塵秘抄の影響

作者はこの歌の「日本的」であることを否定している。

やはり梁塵秘抄ばりのひとつの変化であって自分は骨を折って此処まで歩んで来たような気持がしたのであった。この歌になると、まえにあった「草づたふ朝の蛍よ」の歌とももう違った動きになって居るように見える。外見的には日本的になったとも言い得るが、実質からいえば必ずしもそうではあるまい。(斎藤茂吉著『作歌四十年』より)

 

塚本と佐太郎の評

塚本はむしろ「山峡(やまかひ)に朝なゆふなに人居りてものを言ふこそあはれなりけれ」の方に梁塵秘抄の影響、「今世紀の今様風あはれを感じる」という。

佐太郎は「土に下りたちて啼く」の新しさを指摘している。

 

雲が低く垂れて時雨の降っている空が寂しいというので、その空と「土に下りたちて鴉は啼く」とが不即不離にひびき合っている。「寂し」は直接には「空」に連続しているが、気持ちとしては下句にかかっている。全体として寂莫とした空間の底をのぞいたような歌である。
「土に下りたちて・啼く」という直感が厚くて深い。芭蕉の「枯れ枝に鳥のとまりけり秋の暮」などを想起すれば、この新しさがわかるだろう。「外見的には日本的になったとも言い得るが、実質からいえば必ずしもそうではあるまい」というその実質はこの45句にある。                「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

 




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