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うつつなるほろびの迅さひとたびは目ざめし鶏もねむりたるらむ『あらたま』斎藤茂吉

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うつつなるほろびの迅さひとたびは目ざめし鶏もねむりたるらむ

斎藤茂吉『あらたま』から主要な代表作の短歌の解説と観賞です。

このページは現代語訳付きの方で、語の注解と「茂吉秀歌」から佐藤佐太郎の解釈も併記します。

他にも佐藤佐太郎の「茂吉三十鑑賞」に佐太郎の抽出した『あらたま』の歌の詳しい解説と鑑賞がありますので、併せてご覧ください。

『あらたま』全作品の筆写は斎藤茂吉『あらたま』短歌全作品にあります。

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うつつなるほろびの迅(はや)さひとたびは目ざめし鷄(かけ)もねむりたるらむ

読み:うつつなる ほろびのはやさ ひとたびは めざめしかけも ねむりたるらん

歌の意味と現代語訳

現実の世の滅びの早いことよ。一度目ざめた鶏も早くも眠ってしまったのだろう

出典

『あらたま』大正5年 5 寂土

歌の語句

・うつつ・・・ 現実に生きている状態。現存
・鶏 (旧字表記の鷄)・・・ にわとり 読みは「かけ」
・ひとたび・・・一度
・も・・・並列ではなく強意の「も」
・らむ・・・推量の助動詞

表現技法

3句切れ

 

鑑賞と解釈

「うつつなる」は「うつつなるわらべ専念あそぶこゑ巌の陰よりのびあがり見つ」にも使われたが、「現世の」という俯瞰した位置に立って物事を見ており、仏教的、思想的でもある。

「ほろび」は、伊藤左千夫の「寂びの光」も思い出すが、このほろびは単に寂しいというより、厳かなものであるようだ。

「寂」という字は、 「寂滅」「入滅」と使われ、情緒そのものではなく、「ほろび」を表すものでもある。

朝まだ暗い中鶏が鳴いて、そして、鳴き止む。「また眠るらむ」は鶏の動静であるが、辺りが暗いまま、また静まりかえる様をも伝えている。

何かが起こり、そして消えてしまう。うつつの世は、あたかもそれが繰り返し起こる舞台に過ぎないものであるかのようだ。

その「ほろび」を、鶏の声に思い浮かべるという作者の心の方向が、この一連「寂土」に通底している。

生活の何らかの要因で尾を引いている寂しい心持が、作者に滅びを思わせるとも推測できる。

『あらたま』もモチーフの一つは、作者によると「諦観」であった。

「作歌四十年」より作者の解説

無常生起消滅の迅速なること、雷電のごとく迅いということを、「うつつなるほろびの迅さ」と言った。こういう古代日本語系統にくだく方法をもいろいろと試みて居る。上句と下句との関連の具合などもやはり工夫の上に立っている。(斎藤茂吉著『作歌四十年』より)

佐藤佐太郎の評

暁のまだ暗いのに、鶏はひとしきりときを作って啼くが、またひっそりしてしまう。

鶏は健康な習性によってまたしばらく眠るのであるが、そのことから「ほろびの迅さ」を感じているのが変に深刻である。

抒情詩としての短歌は、直感が深く徹底すれば自ずから思想的になるのである。 「茂吉秀歌」佐藤佐太郎

 

一連の歌

5 寂土
小野の土にかぎろひ立てり真日あかく天づたふこそ寂しかりけれ
うつしみはかなしきものか一つ樹をひたに寂しく思ひけるかも
人ごみのなかに入りつつ暫しくは眼を閉ぢむこのしづかさや
寂しかる命にむかふ土の香の生(しょう)は無しとぞ我は思はなくに
あなあはれ寂しき人ゐ浅草のくらき小路にマッチ擦りたり
現身は現身ゆゑにこころの痛からむ朝けより降れるこの春雨や
途中に手電車をくだるひしひしと遣やふ方なし懺悔(くやしさ)をもちて
うつつなるほろびの迅(はや)さひとたびは目ざめし鷄(かけ旧)もねむりたるらむ

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