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斎藤茂吉『あらたま』短歌全作品 テキストのみ解説なし

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大正六年  1節忌 2 赤彦に酬ゆ 3蹄のあと 4友に 5春光 6三月三十日 7独居 8折りにふれ 9初夏 10室にて 11曇り空 12日暈 13漫吟 14晩夏 15日日 16停電 17午後 18馬追 19箱根漫吟 20長崎へ

1 節忌

おもかげに立ち来る君も今日今夜(こよひ)おぼろなるかなや時ゆくらむか
心づまの写真を秘めてきさらぎのあかつきがたに死にし君はや
おもかげに立ちくる君や辛痛(せつな)しとつひに言ひけむか寒き浜べに
まをとめをかなしといひて風さむき筑紫の浜に君死しにけり
こころ凝りていのち生きむと山川を海洋(わたつみ)をこえて行きし君はや
まながひに立ちくる君がおもかげのたまゆらにして消ゆる寂しさ
山がはのこもりてとよむながれにもかなしきいのち君まもりけむ
山がひのうつろふ木々のそよぎにも清(すが)し光を君見けむもの
生きたしとむさぼり思(も)ふな天つ日の落ちなむときに草を染むるを
しらぬひ筑紫を恋ひて行きしかどはまかぜさむみ咽に沁みけむ
息たえて炎に焼けしものながらまもりて帰る汽車のとどろき
赤き日に焼けのこりたる君の骨はるばる帰る父母の国に
君の骨箱にはひりて鳥がなく東(あづま)のくにに埋められにけり
まながひに立ちくる君のおもかげの眼つぶらなる現身にあはれ
息ありてのこれる我等けふつどひ君がかなしきいのち偲びつ
夜おそく青山どほりかへり来て解熱のくすり買ふもさびしき

2 赤彦に酬ゆ

なまけつつ居りと思ふな明暮(あけくれ)をい往(い)き還らひその夜ねむるに
悲しさを歌ひあげむと思へども茂太を見ればこころ和むに
昨(きぞ)の夜もねむり足(たら)はず戸をあけて霜の白きにおどろきにけり
無沙汰してかなしけれども落ちゐざるこころをもちてけふも暮るるを
よるふけて鶏(にはとり)なくにいまだ寝ず電車のおともなくなりにけり
いとまあるわれとおもふないちじろく幽かに人の死にゆくを見つ
あつぶすまかつぎてぬれどわが心疲れやしけむねむりがたしも
なりわひのしげくく生くればあはれなる歌なかりけりとがむるなゆめ

3蹄のあと

もの恋(こほ)しく電車を待てり塵あげて吹きとほる風のいたく寒しも
をさなごをこころにもちて帰りくる初冬のちまた夕さりにけり
かわききりたる直土(ひたつち)に氷(ひ)に凝(こご)るひとむら雪ををさなごも見よ
秩父かぜおろしてきたる街上(がいじやう)を牛とほり居り見すぐしがたし
この日ごろ人を厭へりをさなごの頭(かうべ)を見ればこころゆらぐを
七とせの勤務(つとめ)をやめて街ゆかず独りこもれば昼さへねむし
ひさびさに外にいづれば泥こほり蹄のあともこころひきたり
をさなごの頬の凍風(しもやけ)をあはれみてまた見にぞ来しをさな両頬(もろほほ)

4 友に

おこたりて百日(ももか)あけくれ微かなる儚きこともありと告げなむ
ひさびさにちまたを行けば塵風の立ちのぼるさへいたいたしかり
告げやらむ事はありとも食む飯(いひ)の二食(にじき)にて足らふこの日頃かなや
墓原をもとほり見れどものこほしものこほしとふ心にあらず
をみなさへおさなご(別字)さへや春陽(はるのひ)のわたるを見つつ目はかがやくに
ほそりつつ心ふるふらしこの日ごろ人の繰るをおそれてこもる
うち競(きほ)ふ心もわかず秘かなるかなかなしみごともなくなりにけり
街に出でて酒にゑへども何なれや水撒(みずまき)ぐるまにもをののくこのごろ

5 春光

春の陽は空よりわたるひとりゐて心寂しめばくらきがごとし
むらぎものゆらぎこらえて(別字)あたたかかい飯はみにけりもののいはなく
ひむがしの空よりつたふ春の日の白き光にも馴れし寂しさ
おのづからねむりもよほすひるごもり障子のやれに風ふきひびく
光る日の厳(いつく)しさにも馴れくれば疑はずけり春の日のぼる
あらはれむことは悲しもたまきはるいのちのうちに我はいふべし
萱草を見ればうつくしはつはつに芽ぐみそめたるこの小草あはれ
をさなごは眠りてゐたりしまらくはねむれとおもふわがひたごころ

6 三月三十日

もの恋(こほ)しく家をいでたりしづかなるけふ朝空のひむがし曇る
赤坂の見付を行きつ目のまへに森こそせまれゆらぐ朝森
馬なめてとどろとゆかす大王(おおきみ)の御行(みゆき)ををまもるのびあがりつつ
病む友の枕べに来ぬよみがへるいきどほろしき心にあらず
このゆふべ砲工廠のひとすみにくれなゐの旗ひるがへるなり

7 独居

腹ばいになりてもの書く癖つきしこの日ごろわれに人な来りそ
つくどくと百日(ももか)こもればいきどほる心も今は起こらざるらし
をさなごの頭(かうべ)を見ればことわりに争ひかねてかなしかりけり
七とせの勤務を止めて独居るわれのこころに嶮しさもなり
こがらし吹く音きこゆ児を守りて寒き衢(ちまた)にわれ行かざらむ
おのづから顱頂(ろちゃう)禿げくる寂しさも君に告げなく明けくれにけり
けふ一日煙草をのまずと尊かることせしごとくまなこつぶりぬ
この日頃ひとり籠りゐ食む飯(いひ)も二食(にじき)となりて足らふ寂しさ
ひろはらの塵をあげくる寒き風玻璃窓(はりど)に吹きて心いらだたし
この朝け玻璃戸ひらきてうちわたす墓原見れば木々ぞうごける
すわり居る吾の周囲(まはり)のおのづから溜まりくるものを除(や)らむともせず
この日ごろ空しく経つつ恋(こほ)しかるものを尋ねむ心さへなし
火曜日の午後のひととき湯を浴みに行かむとおもふ心おこりぬ
をさなごの咳(しはぶき)のおとを気にしつつ夜の小床に目をあきてをり
ひさびさに縁に立ちつつさ庭べの土をし見ればただ乾きたる
鳴り伝ふ春いかづちのと音さへや心燃えたたむおとにあらずも
こもりつつ百日を経たりしみじみと十年(とおとせ)ぶりの思をあがする

8 折りにふれ

電燈をひくくおろして読む文字のかすかになりて疲れけるかも
むらぎもの心なごみてをさなごの直(ただ)に遊ぶにまじはりにけり
このゆふべわがさ庭べに男着て石炭の殻すてて去りたり
過ぎし日のことをかすかに悔いながら春いまだ寒き墓地をもとほる
さるすべりの細木はだか木むらだちて墓をめぐれりもとほりくれば
かりそめに病みつつをれば熱高くおとろへし君をけふもしのびつ
君がつまのやよりよみつつ熱落ちし君を思へり昼床のへに
つげてこし文をよみつつおとろへて室(へや)あゆみをる君をしぬびつ
わがそばにいとけなき児を遊ばせてつくづくと見つ直にあそぶを
墓地かげより響き来る銃(つつ)の音さへや心にとめてきまぞききける
このあさけ墓原かげの兵営のいらかひかれり夏来るらし
墓地に来て椎の落葉を聴くときぞ音のさびしき夏は来むかふ
夏にいる椎の落葉のおと聞けば時雨ににたる音のさびしさ
真日おちていまだあかるき墓原に落葉のにほひを我はかなしむ
さみだれの音てててふるさ庭べをわが稚児に見しむる朝や
しづかなる夜に入りにけり悲しかるおのが心をひとり目守らむ
をさなごの音もこそせねかかる夜に罪悔しめる人をおもはむ

9 初夏

もの投げてこゑをあげたるをさなごをこころ虚しくわれは見がたし
ひたぶるにあそぶをさなごの額より汗いでにけり夏は来向ふ
かりそめの病に籠りをさなごを我がかたはらに遊ばせにけり
をさなごの去りたるあとに散らばれるものを見つめてしまし我が居り
目の前の屋根瓦より照りかへす初夏のひかりも心がなしも
かかる日にひと来ずもはなこもりゐて己心のゆらぎをぞ見む
をさなごの遊ぶを見ればおのづから畳ねぶりをり何かいひつつ
うちわたす墓はら中にとりよろふ青葉のしづけさ朝のひかりに
朝はやく街にいで来てあわただし毛抜を一つもとめてかへる
夏ちかき空はかがよふ朝ながらいそげる我の額に汗わく
ものぐるひの診察に手間どりてすでに冷たき朝飯(あさいひ)を食む
かりそめに病みつつ居ればほそほそし女(おみな)のこゑも沁みみけるかも
こもらへば裏町どほりの遠近(をちこち)に畳をたたく音のさひしさ
窓したをののしりあひて通りをる埃(ごみ)あつめぐるま窓にひびけり

10 室にて

うつうつと空は曇れり風邪ひけるをさなご守りて外(と)に行かしめず
墓原のかげよりおこる銃のおとわが向(むか)つへの窓にこだます
診察を今しをはりてあが室(へや)のうすくらがりにすわりけるかも
おのづから心足らはずひたぶるにむづかり泣く児を立ちて見に来し
さみだれのふる音聞こゆうすぐらき室ぬににゐて心やすらふ
むらぎもの心くるへるをとこらの湯浴むる響(とよみ)しまし聴き居り
悔いごころあはあはしかり昼つかた外面(とのも)みなひり雨のふるおと
ものこほしく夕さりにけり帰るらむ徒歩兵隊の墓地こゆるみゆ

11 曇り空

曇り空にうすき煙の立ちのぼる夕かたまけて子の音もせず
鳳仙花いまだ小さくさみだれのしきふる庭の隅にそよげり
窓のへにいとけなき子を立たしめてわが向(むか)つへの森を見てをり
心こめし為事をへつつ真夏日のかがよふ甍みらくしよしも
うすぐらき病室に来てもの言ふ時わが額のへに汗いでにけり
ひとときの梅雨の晴れ間にさ庭べの軍鶏の羽ばたき見てゐるわれは
硝子ごしむかひに見ゆる栗の木の栗の白花すぎにけるかも
まむかひの墓原なかにいつしかも白き墓ひとつ見えそめにけり

12日暈

をさなごは畳のうへに立ちて居りこの幼子は立ちそめにけり
へやに帰り何もせずに居りにはとりの長鳴鳥(ながなきどり)がきほひ鳴くはや
知れる人たづねも来ずうすぐもる午後のさ庭に書を干し居り
いちじろくあらはれし大き日暈(ひのかさ)はくもりいよいよふかく消につつ
みなみかぜ空吹くなべにあまつ日をめぐりて立て虹のいろかも
うすじめる書もちいだしさ庭辺の隅のひかりに書なめて干す
くもりぞら電柱のいただきにともりたる光は赤く昼すぎにけり
ひる過ぎて空くもりつつ道のべの伝統あかくわが室(へや)ゆ見ゆ
室にゐて汗あえにつつ古き手紙ふるき葉書を整理し時経し
病室の亜鉛(とたん)の屋根を塗りかふる男のうしろをしまし見てをり

13漫吟

汗あえて洋服を著むわづかなる時のひまさげつまを叱れり
をさなごはつひに歩めりさ庭下の土ふましめてかなしむわれは
みちのくの病みふす友に書かくとしばし心を落つけにけり
街に来て人だかりさへ見むは憂し心さびしくなりにけるかも
墓はらを徒歩兵隊の越えゆきてしばらく人の見えぬさびしさ
こうこうと南風ふく窓のべにをさなご立たせかけゆくを見しむ
目の先の甍のうへを跳ねあゆむ鴉を見れば大きかるかも
狂院の病室が見ゆつり垂れしひくき電燈にちかよる人がほ

14 晩夏

日日(けにけ)にあわただしさのつのりきえて晩夏の街をわれは急げり
むらぎもの心はりつめしましくは幻覚をもつをとこにたいす
馬追は庭に来なけり心ぐし溜りし為事いまだはたさず
さるすべりの木の下かげにをさなごの茂太を率(い)つつ蟻をころせり
電燈の光とどかぬ宵やみのひくき空より蛾はとびて来つ
ものさびしく室に居りつつみちのくの温泉街(おんせんまち)の弟おもへり
味噌汁をはこぶお十のうしろより黙してわれは病室に入る
晩夏(おそなつ)の月赤き夜に墓地あひの細きとほりを行きて帰るも

15 日日

いらだたしもよ朝の電車に乗りあへるひとのことごと罪なきごとし
晩夏のひかりしみ入れり目のまへの石垣面のしろき大石
跳ねてこし黒き蛼をひとめみむ時の間もあらめはじきとばせり
うらさびしき女(をみな)にあひて手の甲の静脈まもる朝のひととき
おもおもと曇りて熱き坂下に並みてたたずむ鉄はこぶうま
夜ふけて久しとおもふにわが臥せる室のそと道をとほる人あり
兵営のねむりの喇叭しとしとと降り居(を)る雨のなかよりきこゆ
汗ばみて室にすわれり一しきり墓地下とほる電車きこえぬ

16 停電

晩夏のひかりしみとほる見附したむきむきに電車停電し居り
しづかなる午後の日ざかりを行きし牛坂のなかばを今しあゆめる
夏の日の照りとほりたる街なかをひと往き来れどしづけさあはれ
午後の陽の照りのしづまり停電の電車は一つ坂うへに見ゆ
停電の街の日でりを行きもどる撒水(みづまき)ぐるまの音のさびしさ

17 午後

診察ををはりて洋服のぬぐひまもむかう病室の音をわがきく
海山よりとどきしたよりのいくつにも返事(かへりごと)せずけふも暮れなむ
うつうつと暑さいきるる病室の壁にむかひて男もだせり
はりつめてことに従はむわがこころ真夏八十日(やそか)もつひに過ぎなむ
寒蝉は鳴きそめにけりなりはひのしげく明けくれて幾日か経たる

18 馬追

馬追の来啼ける夜となりけりと人に告げざらむききのさびしさ
馬追はつひに来啼けりさ庭べの草むらなかに雨ふるおとす
いそぎ啼く馬追がねやめざめゐて心さびしめるわれもこそきけ
あかときはいまだをぐらしさむざむとわがまぢかくに馬追なけり
あかつきの馬追ききつ悔しみてひとりめざめるこころゆらぎに
このひごろつかれたりけりあかつきの夢さへ恐れてひとり起きいづ
あわただし明暮夜(あけくれよは)のめぐりさへ言問わぬかなや青き馬追

19 箱根漫吟

ひむがしの海の上(へ)の空あかあかとこのやまの峡間(はざま)に雨みだれふる
山がはの鳴りのひびきを吾嬬(あがつま)の家さかり来て聞けばするどし
わが親しみしものぐるひの幾人(いくたり)を心にしぬぶ山をゆきつつ
いきづめる我が目交(まなかひ)にあらはれし鷹の巣山に天つ日照れり
秋ふけし箱根の山をあゆみつつ水のべ来れば吹く風さむし
われひとり寂しく聞けり山かげに石切る音がこだまし居(を)るかな
山がはに寒き風ふき大石のむらがれるかげにひとりわが居つ
さかさまに山のみねよりながれくるさぎりの渦をまともにか見む
現るる高山の襞くろぐろとうねりゆきつつ息つくごとし
ふかきはざまの底ひに立ちて天つ日をかなし命のまにまにも見む
ちり乱るる峡間の木の葉きぞの夜のあらしの雨に打たれけるかも
山川の成りのまにまに険(こご)しきを踏み通りつつ狭霧に濡れぬ
たたなはる八峰(やつを)の上を雲のかげ動くを見れば心すがしも
さやかなる空にか黒き山膚はうねりをうちて谿にかくろふ
むらぎものみだれしづまらず峡ふかくひとりこもれど峡の音(と)かなし
やまみづのたぎつ峡間に光さし大きいしただにむらがり居れり
かみな月十日山べを行きしかば虹あらはれぬ山の峡より
前山はすでにかげるに奥山はいまあかあかと照りにたらずや
おのづからめぐりあふ山のながれみずいよいよ細し山ふかみつつ
ま澄空(すみぞら)にさやかに照れる高山の谿ふかぶかと陰をつくりぬ
ゆふぐれのをぐらきに入りて谿ぞこに石なげうてば谿木精(こだま)すも
目のもとのふかき峡間は朝霧の満ちの湛(たた)へに飛ぶ鳥もなし
くろがねの色に照り立つ高山の尾ぬれは深く谿にしづめり
峰向(をむかひ)を人のゆく見ゆしみじみと見ゆる山道も照りかげりつつ
あまつ日の光をうけし厳(いか)し山うねりをうちて山襞くらし
白なみの立ちてながるる早川の丘のべのみちにわれはつかれぬ
乳いろにたたふる霧は狭(せば)まれる山の峡間に動かぬごとし
つかれつつ赤埴路(はにぢ)ゆくわがまなかひにすでにあらはるる襞ふかき山
山ゆかば心和ぐやと来しかどもわが胸いたもみぢちりつつ
わがこころしまし空しきに暗谷(くらだに)の低空(ひくぞら)なかを鳥なき過ぎぬ
打ちなびく萱(かや)くさやまに直(ただ)向ふ青清山(あおすがやま)の尾ぬれ見えずも
たたなづく青山の秀(ほ)に朝日子の美(うづ)のひかりはさしそめにけり
湯を浴みて我は眠れりぬば玉の夜のすがらを鳴れる水おと
こほろぎのほそく鳴きゐる山上を清(さや)に照して月かたぶきぬ
大き石むらがりにけり山がはのたぎちに近くうち迫りつつ
石の間に砂をゆるがし湧く水の清(すが)しきかなや我は見つるに
宵ごとに灯(ともし)ともして白き蛾の飛びすがえるを殺しけるかな
しづかなる砂地あはれめりひたぶるに大き石むれてあらき川原に
さびしみてひとり下り来し山がはの岸の滑岩(なめいわ)ぬれてゐにけり
大石のむらがる峡(かひ)に入り来つつ心はりつめて石を見て居り
せまりつつ峡間は深し天つ日の白く照りたるはあはれなるかも
暗谷(くらだに)の流の上(かみ)を尋(と)めしかばあはれひとところ谷の明るさ
この深き峡間の底にさにづらふ紅葉ちりつつ時ゆきぬらむ
わたる日の暮れつつゆけば帰るらむ鴉は低し山峡のそら
この世のものと思へど遥にてこだま相とよむ谿に来にけり
紺ふかきりんだうの花をあがつまと道に摘みしが棄てにけるかも
山路をのぼりつめつつむかうにはしろがねの色に湖(うみ)ひかりたり
あらそはず行かしめたまへたづさはり吾妻としづかに額ふしにけり
いにしへの碓氷峠(うすひたうげ)ののぼり路(ぢ)にわれを恐れて飛ぶ小鳥あり
ここにして顧(かへ)りみすれば高山の峰はかくろふ低山のかげに
ゆうぐれの道は峡間に細りつつ崖のおみょりこほろぎのこゑ
山あざみの花をあはれみ丘貫(ぬ)きて水おち激(たぎ)つほとりにぞ来し
芦の湯に近づきぬらし波だてる高野原(たかぬはら)の上(へ)に黒き山見ゆ
薄波(すすきなみ)よる高野(たかぬ)こえきて山峡(やまがひ)はいよいよふかし我(あれ)ぞ入りゆく
乙女峠に風さむくして富士が嶺(ね)の裾野に響き砲うつを見つ
澄みはてし空の彼方にとほざかる双子の山の秋のいろはや
さびしさに我のこもりし山川をあつみ清(さや)けみまたかへりみむ

20 長崎へ

いつしかも寒くなりつつ長崎へわが行かむ日は近づきにけり
目の前のいらかの上に白霜の降れるを見ればつひに寂しき
ひたぶるに汽車走りつつ富士が根のすでに小(ちひさ)きをふりさけにけり
おもおもと雲せまりつつ暮れかかる伊吹連山に雪つもる見ゆ
西ぞらにしづかなる雲たなびきて近江の海は暮れにけるかも
差が駅を汽車すぐるとき灰色の雲さむき山をしばし目守れり
さむざむとしぐれ来にけり朝鮮に近きそらよりしぐれ来ぬらむ
長崎の港の色に見入るとき遥けくも吾(あ)は来りけるかも
あはれあはれここは肥前の長崎か唐寺のゐらかにふる寒き雨
しらぬひ筑紫の国の長崎にしばぶきにつつ一夜ねにけり
しづかなる港のいろや朝飯の白くいき立つを食ひつつおもふ
朝あけて船より鳴れる太笛(ふとぶえ)のこだまはながし並みよろふ山




-歌集・本

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