佐藤佐太郎による斎藤茂吉の歌集『赤光』『あらたま』の評と解説を集めました。
斎藤茂吉のそれぞれの歌集がどのようなものであったか、その特徴が要を得てコンパクトに述べられています。ぜひ参考にしてください。
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『赤光』の境地
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斎藤茂吉の歌集『赤光』がどのようなものであったかは、以下の佐藤佐太郎の記述に述べられています。
佐藤佐太郎が、長年の師である斎藤茂吉の処女歌集『赤光』について下のように
『赤光』の境地は、万葉集と子規・左千夫とに学んで育ったが、他に茂吉みずからが言うように北原白秋・前田夕暮との交流、阿部次郎・木下杢太郎などからの影響がある。
さらに亜西洋近代美術からの摂取がある。そういうものが、茂吉その人の生と渾然融合しているところに『赤光』の境地がある。
繊細に尖鋭に人間感情および自然の色調を捉えたものもあり、深刻に大胆に人間生活の苦悩を表白したものもあり、その世界は一様ではないが、『赤光』の歌は概していえば、新鮮で強烈でひたむきである。
それに一種の体臭がまつわっている。体臭のあくがありながら、その歌が不潔でないのが又『赤光』の特徴であるが、それは『生のあらはれ』を追及する態度の真実と健康とによる。
また抒情詩としての没細部的詠嘆の直接性によるだろう。茂吉の歌に於て言葉は強く切実で、時に放逸であるが、どういう場合にも言葉は感情に直截な響きをもっていたし、古語も俗語も漢語も独自のいぶきを持っていた。
そして、万葉の古語と漢語・洋語とが一首のうちに不思議な調和を成就して、そこから新しい感覚と深い情緒とがのぞいている。
(佐藤佐太郎 岩波書店「斎藤茂吉選集1」解説より抜粋)
※斎藤茂吉の生涯と、折々の代表作短歌は下の記事に時間順に配列しています。
『あらたま』の悲劇的声調
第二歌集『あらたま』については
(寺田寅彦の評を受けて)「悲劇的声調は『あらたま』のみに限らず茂吉の全作歌を通じている底流である」。
同じく中村憲吉の「視覚的単純性」の指摘に対し)「このいわばディオニゾス的現実把握というのも、茂吉の全作歌を通じる骨格である。そしてその二つの特徴はつきつめれば抒情詩人としての作者の素質にまで落ち着くものかも知れない。」
(佐藤佐太郎 「斎藤茂吉研究よ」り抜粋)
斎藤茂吉の「生のあらわれ」
斎藤茂吉の処女歌集『赤光』の一種の生命力は多くの歌人や評者が指摘するところです。
それについて
「茂吉に於ける『生のあらはれ』の志向は、生命の氾濫・生の肯定としての特徴に貫かれて、『赤光』晩期から第二歌集「あらまた」に連続している。それは『あらたま』初期の「黒き蛼(いとど)」「乾草」「一本道」「七面鳥」などに見る事が出来るが大正三年頃からようやく沈静な諦念の色調が加わるようになった。
生命の積極的な健康性と真実性とは一貫して変わらない茂吉の特徴だが、自然も人間も含めて現実の深さに対する脅威は、やがて敬虔な讃歌に沈潜しようとする傾向を示している。」(同)
以上、斎藤茂吉の作品の理解に、最も適切な佐藤佐太郎の記述をご紹介しました。