佐藤佐太郎が、短歌の表現「単純化」について、斎藤茂吉の弁を引きながら、述べた説明がわかりやすい。
単純化というのは、限られた短歌定型の字数内で表現を完遂するためのひとつの技法であると言ってよい。
どのようなものかは、以下の記述から推察できます。
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「単純化」について 佐藤佐太郎の考察
短歌で「単純化」と言われる表現とその考え方を佐藤佐太郎は次のように述べます。
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詩はすべて『衝迫』に従って作られるものだが、短歌は純粋抒情詩として衝迫に対する態度が他よりも徹底していなければならぬ。
短歌は単純でなければならぬという事も形式が短小だから単純化を要求するのではなく、衝迫にしたがう本質として単純化が要求せられているのである。
短歌独特の表現
短歌はひとつの状態、ひとつの感情をさながらに表現するものである。
さながらな表現は即ち直接な表現であるから、短歌に於いては漢詩や西洋史のような技法をそのまま短歌の技法として受け入れられない場合がある。
斎藤茂吉の漢詩との比較
その事について茂吉は言っている。陸放翁の詩句に『乱山呑落日野水倒寒空』とあるのを例にとって、日本の短歌では「呑む」「倒す」という語が入り難いので、若しそれを入れても古今集以後の属調に堕すると言っている。
また、カール・ブッセの詩を上田敏が訳して、『山のあなたの空遠く、幸住むと人のいう』云々という、この『幸』を擬人的に取り扱って、『住む』と続けたのは、西洋の詩の表現としては上等だが、短歌では無理である。
『漢詩ではこういうことが自由だし、西洋の詩にもこういう種類の表現が多いが、歌は一面は不自由単純でもあり、一面は深い単純化を要求するので、結局こういう表現を要求しないことになるのであろう』
こう茂吉は言っている。
そして漢詩には漢詩として動揺しない技法があり、西洋詩には西洋史として動揺しない技法があるなら、短歌には短歌として動揺しない技法がある。
その動揺しない短歌の技法というものは衝迫に従って単純に直接に、『きりきりのところ、いよいよのところを表すものである(中略ママ)塵滓を洗浄せねばならぬということになり、端的に生を露出せしめるのが本来だということになる。』(佐藤佐太郎 「斎藤茂吉研究」より抜粋)
※斎藤茂吉の生涯と、折々の代表作短歌は下の記事に時間順に配列しています。