斎藤茂吉の父を詠んだ挽歌をご紹介します。
『赤光』の代表作である母を詠んだ「死にたまふ母」よりは、はるかに数は少ないものの、斎藤茂吉は二人の父を持ち、養父斎藤紀一との関わりは茂吉にとって大きなものでした。
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斎藤茂吉の父の挽歌
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斎藤茂吉の親を詠んだ短歌で有名なものと言えば、「死にたまふ母」ですが、二人の父を詠んだ挽歌があります。
斎藤茂吉と二人の父
斎藤茂吉には実父と、それから、中学生の時に養子となった養父がおり、父との関わり、特に養父との関わりは、斎藤茂吉の一生にとって、大きなものでした。
斎藤茂吉は明治15年(1882年)山形県生まれ。生家はそこそこ大きい中農で、旧姓守谷家の養子であったのが、斎藤茂吉の父である熊五郎です。
その父の逝去を知ったのは、留学中のことでした。
わが父が老いてみまかりゆきしこと独逸の国にひたになげかふ
上は、実父の逝去を詠んだ挽歌。
ドイツ留学中に知らせを受け取っており、実質的にも距離があったわけですが、「みまかりゆきしこと」には、心理的な距離感もうかがえます。
七十四歳になりたまふらむ父のこと一日おもへば悲しくもあるか
当時、父上は74歳、その頃の年齢としては十分だという思いもあったのかもしれませんが、「一日おもへば」にはやはり肉親の情も漂います。
しかし、茂吉が実父と暮らしたのは、たった15年でした。
斎藤紀一の養子となった斎藤茂吉
子どもの頃の茂吉は勉強ができ、「神童」と呼ばれ、同郷の出身であった東京都の医師斎藤紀一が「養子にしたい」として、茂吉を東京に引き取りました。
茂吉が15歳の折です。斎藤紀一は医師としてだけではなく、病院の経営にも優れ、「日本一」の精神病院、青山脳病院を建設。
斎藤茂吉は、そこの医師として、紀一の長女輝子の婿養子として、一生を過ごすこととなります。
しづかなる死(しに)にもあるかいそがしき劇(はげ)しき一代(ひとよ)おもひいづるに
紀一は衆議院議員となるまで上り詰めますが、その後は落選。
病院が火災で焼失するなどの不祥事もあり、「しづかなる死(しに)」の通り、亡くなった時は、熱海で療養中で、一人でいる時だったといいます。
休みなき一代(ひとよ)の様を諧(たはむ)れに労働蟻といひしおもほゆ
紀一は享年68歳。
茂吉は諏訪に講演に行って留守の折のことで、その一生を回顧しつつ次のように詠んでいます。
斎藤紀一は風変わりな人物でしたが、一代で財を成した人でならではの多忙さを上のように詠んでいます。
斎藤紀一のエピソードは、斎藤茂吉の息子、北杜夫の『楡家の人々』に詳しく記されています。