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斎藤茂吉と交流があった歌人と文学者たち アララギ人物相関図

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斎藤茂吉の周囲にはどのような歌人や文学者がいたのでしょうか。

アララギの島木赤彦や、伊藤左千夫はもちろんのこと、森鴎外や芥川龍之介とも深い交流がありました。

斎藤茂吉と親交のあった人々を一覧にまとめます。

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斎藤茂吉と歌人たち

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斎藤茂吉は、1882年(明治15年)5月14日山形県生まれの日本を代表する歌人です。本業は精神科医でしたが、歌人としての知名度が圧倒的に高いです。

斎藤茂吉の周辺の人物には、師の伊藤左千夫、同じアララギの歌人である、島木赤彦と、親交のあった北原白秋、文学者の芥川龍之介らがいます。

それぞれの交流がどのようなものであったかをまとめます。

※斎藤茂吉の作品と生涯については

斎藤茂吉 三時代を生きた「歌聖」

 

森鴎外 尊敬する医師で文学者

森鴎外は短歌の上での師ではありませんが、医師として、また知識人として斎藤茂吉に尊敬されていた人物です。

森鴎外が、自宅でアララギ派と明星派の両方を交えた歌人を集わせる観潮楼歌会に出席したのをきっかけに深い交流が始まったようです。

茂吉が森鴎外の短歌の影響それほど受けているとは思われませんが、様々な派の歌人と接したことは、短歌を始めたばかりの斎藤茂吉には大きな刺激となりました。

また森鴎外は、斎藤茂吉が望んでいたドイツへの医学留学の先輩でもありました。

森鴎外の亡くなったのは斎藤茂吉のドイツへの留学中のことであり、茂吉がその訃報大変な驚きをもって受け止めた様子がその時の短歌によってもわかります。

単純に歌の上での付き合いという以上に、森鴎外は医師として、文学者として茂吉の尊敬を集めた人物でした。

 

芥川龍之介 斎藤茂吉が精神科主治医を務めた

芥川龍之介は、斎藤茂吉は主治医として、文学者としての交流があった文学者です。

芥川は短歌を詠みませんが、斎藤茂吉の『赤光』を心服、「自分の短歌への目は斎藤茂吉に開けてもらったのである」と記しました。

その後、芥川を診察、薬を与えるなどしましたが、芥川が服毒自殺をするに至りました。

斎藤茂吉は芥川の自殺には大きな衝撃を受け、追悼の歌を詠んでいます。

 

北原白秋との短歌の交流

斎藤茂吉は多くの歌人とも交流がありましたが、初期に最も影響を与え合った一人が北原白秋です。

『赤光』の刊行のあと、『あらたま』の頃は、斎藤茂吉は歌の制作が不調になります。

その際に、その頃刊行された『梁塵秘抄』に題材をとった白秋の歌に触れ、白秋が歌を詠んだ海岸三崎を訪れるなどして、自らの歌の題材を模索しました。

この頃の歌は、藤沢周平に「文学的過ぎる」と言われるほど、一つの傾向を示しており、北原白秋を通じた摂取が茂吉にも大きな影響を及ぼしたことは、作品の上からも顕著に表れています。

 

幸田露伴 少年時代に傾倒した文学者

斎藤茂吉が幼少の頃からその作品に親しんだ文学者に幸田露伴がいます。

少年時代には、幸田露伴作の『ひげ男』付録の「靄護精舎雑筆」に傾倒、露伴一流の「処世訓」を指標としたとあります。(『斎藤茂吉 生きた足あと』より)

佐藤佐太郎は、『赤光』の初期作品「月落ちてさ夜ほの暗く未だかも弥勒は出でず虫鳴けるかも」に、幸田露伴の影響を指摘しています。

昭和9年には、幸田露伴本人と初めて面談が叶い、その時の様子は『露伴先生』の随筆にも記されています。

以下は、アララギの人物をあげます。

 

伊藤左千夫 斎藤茂吉の短歌の師

 

伊藤左千夫は斎藤茂吉の短歌の先生にあたる人物の、短歌誌「アララギ」の歌人です。斎藤茂吉が手紙で質問を送り、それに応えたのがきっかけでアララギに入門、師弟関係となりました。

アララギでは、一時伊藤左千夫と他の弟子たちとの間に亀裂が入ることもあったものの、斎藤茂吉の処女歌集『赤光』は、伊藤左千夫に見せたいという心づもりがあり、初版では、歌の年代順を逆にして編纂、、伊藤左千夫の逝去時の歌が、追悼の意味を込めて巻頭に置かれていました。

伊藤左千夫は一時は茂吉とも不仲でしたが、茂吉の歌人としての伊藤左千夫への尊敬は、左千夫の逝去後も変わることはありませんでした。

 

アララギの人物相関図

長塚節 年上の先輩

斎藤茂吉は、正岡子規に直接会ったことはないのに対して、長塚節は、正岡子規の直弟子にあたります。

同時期の伊藤左千夫は紛れもなく師であり、長塚節も師と言ってもいい関係ですが、どちらかというと親しい先輩であったような印象を受けます。

『赤光』の解説を依頼

当初、斎藤茂吉は長塚節に『赤光』の解説を依頼していましたが、どういうわけか、完成しませんでした。

長塚節は、斎藤茂吉の女性との交流について、斎藤茂吉に直接に聞いたこともあるようですが、斎藤茂吉は、それを他の人にも話したと言って、不満を述べた一幕もあります。

長塚節の斎藤茂吉への評価もそれほど高くはなかったといえますが、斎藤茂吉は長塚節の挽歌も詠んでいます。

 

島木赤彦 アララギの短歌の友人

島木赤彦は、長野県出身の歌人で、伊藤左千夫に入門した歌人の友人の一人です。

斎藤茂吉が留学から帰ってきた時は、 木曽福島にともに旅行をして短歌を競うなど、良き競争相手でもありました。

斎藤茂吉が長崎で療養をした時は、島木赤彦ははるばる長崎まで茂吉を見舞うなど、密な交流は生涯続きました。

『島木赤彦臨終記』の随筆

胃がんにより若くして亡くなった島木赤彦の逝去に関しては、斎藤茂吉は『島木赤彦臨終記』という文章でその時の様子をつぶさに記しています。

その随筆で、追悼の意を尽くしたためか、島木赤彦の逝去時の挽歌は詠まれませんでした。

アララギの友人たちにとっても、赤彦の突然の死は大きな衝撃だったのです。

 

古泉千樫 アララギ初期の親しい友人

古泉千樫(こいずみちかし)は千葉県出身の歌人で、早くから伊藤左千夫に師事し、その縁で、斎藤茂吉とは一時期もっとも親しい友達でした。

『赤光』には古泉千樫を直接詠んだ歌もみられますが、茂吉の住まいであった青山の病院にも度々訪ねて来ていた様子もうかがえます。

古泉千樫は、一時アララギの編集を担当していましたが、あまりにもずぼらな性格から、発行が遅れ、あとを斎藤茂吉が引き継いだこともあります。

古泉千樫のライバル意識

また、千樫の自分の歌集は茂吉の『赤光』のあと、だいぶ遅れて出版されました。

それも、斎藤茂吉の『赤光』の評判があまりに良かったために、茂吉への競争心を持っていた千樫が発行を懸念したためと伝わっています。

友達でもあり、良きライバルでもあったわけですが、古泉千樫はアララギを脱退、それによって、交流が途絶えてしまったようです。

古泉千樫はその後、結核で若くして逝去、茂吉は逝去後も千樫を追想する短歌を詠んでおり、青春時代の良き友達であったことは変わりませんでした。

 

中村憲吉 生涯の交流

中村憲吉は、広島県出身のアララギ歌人の友人で、伊藤左千夫に入門した歌人の友人の一人です。

温厚な性格であった中村憲吉は、アララギ同人の中でも斎藤茂吉とはもっとも気が合ったようです。

中村憲吉が東京に住んでいる頃は、家庭の問題を相談もできるほど親しく交わり、毎日のように一緒に飲み歩くなど若き日を共にしています。

欧州の茂吉に電報

斎藤茂吉がドイツ・オーストリアに留学をしたときには、日本で関東大震災が起こりましたが、家族の安否がわからず憂慮していた茂吉に、「家族皆無事」との英文の伝聞を送ったのも、中村憲吉です。

中村憲吉が故郷広島に移り住んでからも、結核の療養をしていた憲吉を茂吉が見舞うなどして、生涯を通じて交流が続きました。




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