藤茂吉の忌日は、2月25日、茂吉忌と呼ばれています。
斎藤茂吉の亡くなった原因、死因は「心臓喘息」というものです。
斎藤茂吉の逝去と死因についてです。
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斎藤茂吉の茂吉忌日
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斎藤茂吉の亡くなったのは、1953年、昭和28年2月25日。
死因は年譜には「心臓喘息」と伝えられています。
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心臓喘息とは
心臓喘息とは、説明を読むと「重篤な左心不全により咳、痰、喘鳴(呼吸をするとゼーゼーあるいはヒューヒューと音がすること)を伴う呼吸困難発作」とああります。
死因としてよく聞く、心不全の重症の状態だと思われます。
斎藤茂吉 享年70歳
亡くなったのは、新宿区大京町の自宅で、晩年は、長男の精神科医斎藤茂太と妻てる子と共に同居の上、家族の手によって手厚く世話をされていました。
「赤光院仁誉遊阿暁寂清居士」。墓地は青山霊園に葬られています。
生れたのは、1882年〈明治15年〉5月14日、享年70歳でした。
輝子夫人とは不仲の時期もありましたが、晩年はよく茂吉の世話をしたとも伝えられています。
斎藤茂吉の死因
斎藤茂吉の死因については、記載は心臓喘息ですが、3年前に新宿区大京町の家を新築した折には、引っ越しの際、寝台車に乗って移ったとの記載もあり、既にその頃も具合が悪かったのは間違いありません。
文化勲章の授与式では、不自由な足を引きずって、ようやく参加したようです。
七十路のよはいになりてこの朝けからすのこゑを聴かくしよしも
というのが、年齢の入った歌ですが、最後の歌は
冬粥を煮てゐたりけりくれなゐの鮭のはららごに添へて食はむと
とされています。
晩年の病気がちだった斎藤茂吉
それ以前にも、老化や衰えは早くから自覚していたようで、1921には慢性腎炎に罹患。
その後、元教え子の永井ふさ子との恋愛問題の折には、身体が衰えていたために結婚には至らなかったという意見を述べている人もいます
1950(昭和 25)年 10 月 19 日に軽い脳溢血を起し、左半身に不全麻痺が残る状態でした。
仲の良かった次兄、守谷富太郎が亡くなった知らせを受けた翌日のことだったといい、精神的な衝撃が不調を引き起こしたと思われます。
佐藤佐太郎の『斎藤茂吉言行』
それ以来、斎藤茂吉は床に臥すようになり、佐藤佐太郎はそれまで書いていた『斎藤茂吉言行』の記録を、1951(昭和26)年 12 月 29 日をもって停止したと残しています。
私の手帳には昭和二十七年の記録もすこしあるが、私はぎりぎりの限界のところで清書をうち切った。(略)先生は病気によって肉体がおとろえ頭脳がおとろえた。先生は家族の中にだけあって静かに残生を送られるのがいい。これ以上私などが先生を見てはならない。
弟子の柴生田稔と、長男斎藤茂太が、後に認知症とその症状があったことも明かしています。
斎藤茂吉の挽歌
斎藤茂吉と交流を持った人の挽歌は以下の通りです。
しづかにてありのままなる晩年の時すぎしかばみ命終る
―作者:佐藤佐太郎
雪しろの はるかに来たる川上を 見つつおもへり。斎藤茂吉
―作者:釈超空
強羅(がうら)のやま君とのぼりて秋の夜の虹のさやけき見しを忘れず
―作者:山口茂吉
物の芽の萌ゆらむとして降る雪にすはれてゆきし大きみいのち 悼茂吉
―作者:津田治子
近づけぬ近づき難きありかたも或る日思へばしをしをとして
―作者:土屋文明
近く居て吾は聞きにき助詞一つ苦しみ考ふる君が息づき
―作者:五味保義
あかつきに鳴くひぐらしのあはれさも君に承(う)けにし一つと思ふ
―作者:柴生田稔
斎藤茂吉の挽歌について詳しくは下の記事に